『Zガンダム』のラストがどういう意味だったのか、ようやく分かった


※ この記事は2015年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です


※ この記事はテレビアニメ版『機動戦士ガンダム』全43話テレビアニメ版『機動戦士Ζガンダム』全50話劇場アニメ版『機動戦士Ζガンダム』三部作のネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。


 現在の自分はブログにレポート記事を書くために、dアニメストアの「見放題」サービスでアニメを観まくっているのですが……『機動戦士Ζガンダム』の劇場版三作品を観終えたので、今日はその話を書こうと思います。先にスタンスを書いておきます。私は「すげえ面白い!」と思いました。テレビ版の『Zガンダム』が好きでなかった自分が、劇場版を観て初めて「Zガンダムってこういう話だったんだ!」とも思いました。


 ガンダムシリーズを全く知らない人も、このブログを読んでいると思うので説明します。
 『機動戦士ガンダム』は1979年~1980年に放送されたテレビアニメで、本放送の時は色々あって打ち切りとなってしまいましたが、再放送やプラモデルの発売が爆発的な人気を生み、社会現象化して1981年と1982年には総集編の映画が三本公開されました。

 『機動戦士Ζガンダム』は、その人気を引き継ぐ形で企画されたガンダムシリーズ第2弾のテレビアニメで1985年~1986年に放送されました。以後、ガンダムシリーズは『ガンダムZZ』『逆襲のシャア』『F91』……と続いて現在でもまだ新作が続く長寿シリーズとなったのです。

 劇場版の『機動戦士Ζガンダム』は、その20周年に合わせて企画された総集編映画で、2005年~2006年に三部作という形で公開されました。基本的には総集編なのだけど新作カットも多く、自分の感覚では“リメイク”と言ってイイくらいに作り直されたものだと思いました。



 私個人の好き嫌いの話をしますと……
 最初の『機動戦士ガンダム』はとても大好きです。通して5~6回観ていると思いますが、未だに新しい発見がありますし、それでいて「構造が分かりやすい」ところが自分の好きなところです。
 『機動戦士ガンダム』をものすごく噛み砕いて説明すると、たまたまホワイトベースという戦艦に乗り込んだ素人集団が、次々とやってくるジオン軍の追っ手と戦いながら成長していく話だと思うんです。バックボーンには深い設定があったりもするのですが、基本的には「追いかけっこ」と「少年少女の成長物語」だと私は思っています。


 それに比較して、『機動戦士Ζガンダム』はあまり好きではありませんでした。
 好きになれなかった理由を今回改めて考えてみると「何をやっている話なのかが分からなかった」からなのかなと思いました。“難解”というと私の読解力の問題ですが、そもそも“何も考えずに作っている話なんじゃないのか?”と私はずっと思っていたんですね。

 分かりづらいというのは、敵・味方がハッキリしないエゥーゴ・ティターンズ・アクシズの三つ巴の勢力だというのもあるのですが……
 私が思うに、『ガンダム』のホワイトベースの乗組員は素人集団だったために成長物語になったけど、『Zガンダム』のアーガマの乗組員は(カミーユ達一部のキャラ以外は)元々の軍人だというのが大きいと思うのです。ブライトやクワトロ大尉は言うまでもなく、エマさんもレコアさんも元々軍人で、カミーユの方が「プロの軍人の中に入った素人」という特殊なケースなのです。

 じゃあ、そうした歴戦の勇者達に囲まれたカミーユが一人成長していく話なのか―――と思って『Zガンダム』を観ちゃうと、よく分からない話になってしまうのです。
 カミーユって最初から無茶苦茶強いし、序盤からジャブロー攻略みたいな大掛かりな作戦に参加しているし、成長の余地があまりないキャラだと思うのです。人間性の成長としては、攻撃的だった性格がアムロやフォウとの出会いによって丸くなっていったところはあるのですが、それ以降のカミーユは「言うことを聞かないカツ」とか「思い通りにいかないサラ」とか「もうワケが分からないロザミィ」とかに苦しめられて報われることがないし。
 最終話のラストシーンまで行くと、結局カミーユは精神が崩壊してしまうワケで……「戦って戦って成長した先にあるものがコレかよ」というのが私の『Zガンダム』の感想でした。


 なので、『Zガンダム』の劇場版が公開されても10年間観ていませんでした。
 『Zガンダム』が元々好きじゃない、テレビアニメの総集編映画が好きじゃない、の二倍掛けで全然興味がなかったのですが……タイミング良くdアニメストアの「見放題」に入っていたので、じゃあ話のネタにもなるだろうし観てみようかなーと視聴したのです。

(※2025年3月7日追記:劇場版『Z』が現在"見放題"になっているのはU-NEXTDMM TVHuluバンダイチャンネルみたいです)



 そしたら、すげえ面白いの。

 元からテレビ版の『Zガンダム』が好きな人は正反対な感想を持つかも知れませんが……
 テレビ版の『Zガンダム』が好きではなかった自分にとっては、割と有名なシーンでも無駄なシーンは容赦なくカットして、逆にさり気なく追加されたシーンも多くて、とても分かりやすく再構成されていて。『Zガンダム』という作品が何を描いていた作品だったのかが、ようやく分かった気がしました。


 この記事を読んでから「じゃあ劇場版『Z』も観てみようかな」と思ってくださる人もいると信じていますから、決定的なネタバレは書きませんが……テレビ版からものすごく変わってしまったシーンも劇場版にはあって、当時それが宣伝として結構言われていたように覚えているのですが。
 私個人の解釈だと、確かに「起こっている出来事は違う」けど、「そのシーンが意味しているもの」はテレビ版の頃と一緒でそれを分かりやすくしただけかなと思っています。『エヴァンゲリオン』の旧テレビ版と新劇場版が、「起こっている出来事が全然違う」けど「描かれているものには通じるものがある」リメイクなのと同じようなカンジかなと。



 『Zガンダム』って、『ガンダム』と裏表のような話だと思うんです。

 カミーユ・ビダンは、「アムロ・レイの再来だ」「アムロ・レイの再来だ」と言われていたけどアムロ・レイとは違う最後を迎えます。つまり、アムロになれなかった主人公がカミーユで、『ガンダム』になれなかったのが『Zガンダム』だったのだと思うのです。劇場版によって分かりやすくなったから私は今回初めて分かったのですが、元々そういうストーリーだったことに私が気付いていなかっただけじゃないかなと思います。



○ アムロ・レイになれなかったカミーユ・ビダン
 ということで、『Zガンダム』のラストを説明するには『ガンダム』のラストから説明するのがイイのかなと思います。

 『機動戦士ガンダム』という物語は、たまたま住んでいたコロニーがジオン軍に攻撃されたアムロ・レイがガンダムに乗り、ホワイトベースの面々と共にジオン軍に追われながら逃げ続ける話です。
 故郷を失ったアムロは逃げ続ける旅の中で母に再会しますが、ジオン軍との殺し合いを続けている自分と母とはもう住む世界が違うのだとアムロは母の元を去ります。また、その後に宇宙に上がったアムロは父とも再会しますが、父はもう「尊敬できる父」ではなくなっていました。

(関連記事:アムロ・レイは誰を殺すのか
(関連記事:アムロが父との再会で見たもの

 「帰るべき故郷」も「帰るべき家庭」も失ったアムロは戦い続けるしかないのですが、戦場で出会った「帰るべき場所」になってくれたかも知れないララァ・スンのことも殺してしまいます。ずっと傍にいて見守ってくれていたフラウ・ボゥも、自分ではなくハヤトを選んだのだと知り、最終決戦ア・バオア・クーではガンダムも破壊され、ホワイトベースも沈みます。

 正真正銘全てを失ったアムロは「死」を受け入れますが、最後の最後にララァの声を聞いたアムロは、ホワイトベースのみんなを導き、自分も生き残ろうとします。「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。」と。


 『機動戦士ガンダム』という物語は、戦争によって「故郷」も「家族」も「愛する人」も奪われた登場人物達に「それでも生きていいんだ」と希望を与えるストーリーだったのです。

(関連記事:帰る場所を探すストーリー。 『機動戦士ガンダム』全話を視聴し直して



 さて、では『機動戦士Zガンダム』はというと……
 『機動戦士ガンダム』の第1話と『機動戦士Zガンダム』の第1~2話は意図的に似せて作られていると思うのですが、似せて作られているからこそ決定的に違うことが分かります。
 『ガンダム』のアムロは住んでいるコロニーがジオン軍によって攻撃されたことで「帰るべき故郷」を失い、自分も生き残るためにガンダムに乗って戦うしかなくなるのですが。『Zガンダム』のカミーユは戦争とか関係なく、ティターンズの人をぶん殴ってしまったから帰れなくなって、エゥーゴの潜入による混乱に乗じてガンダムMk-IIを強奪、コロニーに潜入した側のエゥーゴに付いて逃げていくのです。

 戦争によって故郷を失ったアムロと、自分のせいで故郷に帰れなくなったカミーユ―――実はこの二人の始まり方は正反対なんです。

 しかし、初めて乗り込んだガンダム(Mk-II)を乗りこなしたことで「アムロ・レイの再来だ」「アムロ・レイの再来だ」ともてはやされて、(自分がティターンズぶん殴ってガンダム強奪したせいだけど)帰る場所も失ったのでなし崩し的に戦争に参加していくのです。



 『キャプテン』で言えば、アムロは最初は大した実力もなくて周囲からもなかなか認められなかったけど、努力が実って急激な成長を遂げたことで周囲の信頼も得てカリスマ化していく谷口タイプで。
 カミーユは最初からとてつもない才能を見せていたことで、扱いにくい性格でありながら即戦力で試合に投入されて、徐々に周囲をかき乱すこともなくなっていくイガラシタイプってところかなと思います。


 アムロが戦争の中で全てを失っていったように、カミーユもまた戦争の中で様々なものを失っていきます。(自分がティターンズぶん殴ってガンダム強奪したせいだけど)故郷にはもう帰れず、両親も死んでしまい、旅の果てで出会い惹かれあったフォウ・ムラサメも死んでしまいます。

 そして、アムロとは決定的に違うことに……アムロには、まだ最後の最後に「ホワイトベースで一緒に戦ったみんな」が残っていて、「まだ僕には帰れる所があるんだ」の台詞に繋がるのですが。
 カミーユの場合、共に戦った仲間も次々と死んでいってしまうのです。アポリーが死に、カツが死に、ヘンケン艦長らラーディッシュの乗組員は全滅し、レコアさんが死に、エマさんが死に、クワトロ大尉も生死不明―――アムロには残っていた「帰れる場所」がカミーユには残っていなかったのです。


 カミーユとシロッコの最後の対決で、カミーユは死んでしまった人達の想いを乗せてシロッコに特攻をかけて見事に倒します。しかし、勝ったカミーユに何が残るのか。故郷もない、両親は死んだ、愛したフォウも死んだ、共に戦った仲間のほとんどが死んだ。
 精神崩壊というラストは、初めて観た時は子どもながらにショックでしたが……「精神が崩壊した」ことはあまり重要ではないのかなと、『ガンダム』のラストから繋げて観ると思うのです。


 大人達に「アムロ・レイの再来だ」「アムロ・レイの再来だ」ともてはやされて戦場に送り込まれたカミーユ・ビダンは、『ガンダム』最終話で全てを失ったと思っていたアムロに最後に残った「帰れる場所」すら残っていない、正真正銘「戦争によって全てを失ってしまった主人公」だったんじゃないのか――――

 それはつまり、カミーユ・ビダンはアムロ・レイになれなかったということなんじゃないのか―――



 ここまで読んでくださった人の中で、『Zガンダム』のラストを知っている人は「え?」と思われていることでしょう。敢えてここまで私は一切触れないように書いてきましたからね。それは、「カミーユはアムロになれずに全てを失ってしまった主人公だった」ということを先に書いておきたかったからです。


 しかし、

 全てを失ったカミーユの横に、最後にはファ・ユイリィが残った―――

 これこそが『Zガンダム』という作品が描いていた「希望」だったのだと思います。



○ フラウ・ボゥにはならなかったファ・ユイリィ
 劇場版を観て改めて思いましたけど、『Zガンダム』という作品にはかなりの数の女性キャラクターが登場します。そして、その女性キャラクターの陰には男性キャラクターが配置されています。

 一番印象に残るのは、「女性を道具のように扱う男性キャラクター」と「男性に道具のように扱われる女性キャラクター」です。これは恋人関係に限らず。
 フォウ・ムラサメを操っていたのはベン・ウッダーでしたし、ロザミア・バダムに指示を出していたのはブラン・ブルタークで後にゲーツ・キャパになります。サラ・ザビアロフは言うまでもなくパプテマス・シロッコの道具でしたし、レコア・ロンドだってクワトロ・バジーナに利用されるだけの立場なのを嫌がってエゥーゴを抜けてしまいます。そこで向かう先がパプテマス・シロッコで、「結局そこでも利用されてるだけでは……」というのは言ってはならない。


 もちろん『Zガンダム』に登場する全ての女性キャラクターが男性に道具のように扱われているワケではなくて、「男性を鼓舞する女性キャラクター」もたくさん登場します。
 アムロ・レイを復活させたベルトーチカ・イルマは作中でもそう公言していましたよね。フラウ・ボゥはアムロを復活させられなかったけど、ベルトーチカ・イルマには出来たというのは象徴的。ジェリド・メサが幾度も立ち上がりカミーユに向かってきた背景には、ライラ・ミラ・ライラやマウアー・ファラオの存在があったからですし。ちょっと変則的な形ですけど、エマ・シーンへの想いがヘンケン・ベッケナーを駆り立てていたところもあると思います。


 ファ・ユイリィは、そういうキャラではないんですね。
 ファはカミーユを鼓舞しないし、カミーユはファのために戦うワケではありません。もちろんカミーユがファを道具のように利用することもありません。


 この辺、『ガンダム』におけるフラウ・ボゥとは対照的だなと思うのです。
 フラウ・ボゥは、戦いたがらなかったアムロを戦場に追い立てたこともあるし、逃げ出したアムロを追いかけてきたこともありました。結果的にそれがアムロを成長させてしまい、自分とは遠い存在になってしまったと思ったフラウ・ボゥはアムロの横から身を引くのですが。

 ファ・ユイリィはどうかと言うと……
 ファ・ユイリィは自分がパイロットとなって、カミーユの横に並ぼうとするのです。

 同じような「口うるさい幼馴染」ポジションで、同じように「母性の強いキャラ」として置かれていたファ・ユイリィですが、フラウ・ボゥとは対照的な行動を取っているのです。
 私はこれまで『Zガンダム』におけるファ・ユイリィの存在があまり好きではありませんでした。ファがパイロットになるってどんだけ人材不足なんだよというか。元から訓練を受けていたワケではない、カミーユのように特別な才能があるワケでもない、カツはまだ「前作のキャラが成長してパイロットになるのって燃えるじゃん」という理由で百万歩譲って認めるとしても、ファがモビルスーツに乗って戦う理由って何だろうとずっと思っていました。


 でも、フラウ・ボゥと対比して考えるとすごくよく分かるのです。
 「アムロ・レイの横にはいられなくなってしまったフラウ・ボゥ」に対して、「カミーユ・ビダンの横にいようとしたファ・ユイリィ」は“フラウ・ボゥのifの姿”だったと言えると思うのです。アムロをおだてて、叱咤して、母親のように接するのではなく、フラウがアムロとともに戦う道を進んでいたなら……ああいうラストにはならなかったというのがファだと思うのです。

 そして、ファのような立ち回りをする女性キャラは、『Zガンダム』の中では他に登場しません。強いて言うならマウアーは近いかも知れないけど、マウアーはジェリドを支えようとしていたのでファとはちょっと違うかなと。
 ファは離れてしまったカミーユに追いつこうとパイロットになって、カミーユの横に並ぼうとします。カミーユに利用される女にも、カミーユを支えるだけの女にもならず、カミーユと対等の立場で共に歩める女になろうとするのです。


 その結果、
 「戦争によって全てを失ってしまったカミーユ」の横に、ファは残れたのです。

 カミーユ・ビダンはアムロ・レイにはなれなかった。
 しかし、ファ・ユイリィはフラウ・ボゥに出来なかったことをやろうとした。


 劇場版は特にこの構造が分かりやすくなるように、カミーユとファのカットの直後に「アムロとフラウのカット」が入るんですね。別々のルートを進んだファとフラウが対比されて見えるように。



 様々な男女の姿が描かれて、ほとんどの女性キャラが死んでいったこの作品のラストにおいて、「男と共に肩を並べて歩めるように自立しようとした女」だけが残った―――というのは象徴的だなと思います。
 実はファ・ユイリィ以外にも戦場で生き残った女性キャラはいて、ハマーン・カーンもまた「シャア・アズナブルと共に肩を並べて歩めるように自立しようとした女性キャラ」と言えるかも知れません。「共に肩を並べて歩める」どころか「百倍速で追い抜いちゃった」くらいの関係性になってましたけど(笑)



 『Zガンダム』という作品を、私はずっと『ガンダム』のような作品として受け取ってしまって、だからこそ楽しめなかったのだと思います。劇場版で分かりやすくなったように、『Zガンダム』は『ガンダム』とは全く違うことをやろうとした作品だったと思うのです。
 「アムロ・レイの再来だ」「アムロ・レイの再来だ」ともてはやされたカミーユ・ビダンがアムロ・レイにはなれなかったように、『Zガンダム』は「『ガンダム』の続編だ」「『ガンダム』の続編だ」ともてはやされながら『ガンダム』のようにはなれなかった人達を描いていた作品だったのかなと。似通っているシーンやキャラ配置は、むしろその二つの差異が分かりやすくなるために描かれていたんじゃないかなと。


 それが分かって、今回劇場版を観てみて本当に良かったです。
 テレビ版から20周年で作られた劇場版を10年後に観て、今更ですけど(笑)。

 『Zガンダム』という作品がどういうものだったのか、ようやく分かった気がしました。


 よし!次は『ガンダムZZ』の総集編映画を作りましょう!
 今の技術でエルピー・プルのお風呂シーンを作り直すのだ!

 でも、アレも再構成することで化ける作品だとは思うんですけどね。来年が30周年ですし。

コメント