※ この記事は2012年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
年末年始からチマチマと始めた『機動戦士ガンダム』の再視聴、33話まで進みました。
サイド6に入ったアムロが父親と再会する回です。名作とは観る度に新しい発見があるもので、昔は何となくで観ていたこの回もオッサンになってから見ると思うところの多い回になっていました。
アムロの父親:テム・レイは元々ガンダムの開発に携わった一人。
自分の家に引きこもってメカいじりばかりしていたアムロからすれば、メカいじりでメシを食っているどころか連邦軍の最新鋭の戦闘兵器を作っている人ということで、父親は雲の上の存在だったワケです。父親として、尊敬の対象であり、畏怖の対象であったと思われます。父子としての関係が希薄だったとしても。
そのテムですが、『ガンダム』第1話でアムロが勝手にガンダムに乗り込んでザクと戦った余波でコロニーの外に投げ出されてしまいます。そこからずっと出番がなく、第33話で再登場した際には「酸素欠乏症」の後遺症で気がおかしくなってしまっていて、アムロがとてもショックを受けてしまうのです―――
と、昔『ガンダム』を観た時の自分は記憶していたのですが、今観ると「酸素欠乏症」の部分はわりとどうでもいいんですよね。
ここでのポイントは、アムロは知らず知らずの内に父親を超えてしまっていた―――という悲哀の方だったんです。10代の頃に観た時は、これがピンときませんでした。
ちょうど分かりやすく、同じ第33話にはもう1組の「再会」が描かれます。
ミライとカムランの話です。許婚だった彼ら二人ですけど、戦争に巻き込まれて命からがら生き延びたことで成長を余儀なくされたミライと、戦争から逃げ続けてきたカムランの間には溝が生まれていました。
カムランはミライに「昔はそんなコじゃなかったのに」と言い、ミライはカムランに「戦争さえなかったら(私も変わらなくて済んだのに)」と言います。
「成長した者」と「成長しなかった者」を、対比して描いているのです。
同じことは、アムロとテムの親子にも言えます。
アムロもまた戦争に巻き込まれて成長を余儀なくされた一人です。シャアと戦い、ランバラルを乗り越え、たくさんの仲間と死に別れ―――戦争の意味を考えるようになっていきました。ガンダムどころか、更なる最新鋭兵器であるガンダムのパワーアップメカまで使いこなし、連邦軍の一員として戦うようになってしまいました。
それなのに、父親であるテムはジャンク屋に落ちぶれ、旧式のメカをガンダムに取り付けろとかほざく有様だったのです。アムロが部屋に引きこもっていた時には雲の上の存在であった父が、尊敬の対象でも、畏怖の対象でもなくなってしまっていたんです。
そして、アムロはすがるように父に言います。地球で再会した母のことを。
それはつまり、アムロにとって「父は父でいて欲しかった」し「母は母でいて欲しかった」からなんです。3人が家族だったという繋がりの話をしたかったのですが、父親はそっけなく背中越しで答えるだけでした。この瞬間、アムロにはもう「帰るべき家庭」も「尊敬する父」もどこにもいないのだと突きつけられたのです。
完全なる「家族との別離」―――
アムロはもう大人になるしか許されなくなったのです。
「何を今更そんなことを(笑)」と言われそうですけど、昔の自分は気付かなかったのですもの。
ここに気付くと前後のシーンとかも、「あぁ……こういう意味があったのか」と分かるところがあって。
例えば、この父との再会シーンの直後、アムロと一緒に出撃したスレッガー中尉が「イイコだ」と言った後にアムロが怒るところがあるんですね。私は今まで「父親が狂っちゃったからかアムロ不機嫌だなー」くらいにしか思っていなかったんですけど、これは“大人になることを余儀なくされたアムロ”が子ども扱いされたことに腹を立てたシーンなんですよね。
また、父との再会の直前の33話Aパートにて、セイラさんがアムロにフラウ・ボゥの話をするシーンがあります。そして父との再会を経て、34話でようやくララァが登場するのです。ここのタイミングは絶対に意図的ですよね。アムロにとってフラウは「子ども時代」の象徴で、ララァは「大人になる自分」の象徴なんです。
本当に、1つ1つの回が緻密に計算されている作品だと思います。
1度観ただけでは分からなかったことがたくさんあります。まぁ……私は多分4回目くらいの視聴なんで、もっと早く気づけよって話なんですけど(笑)。
ちなみに、ここまで容赦なく「帰る家」も「尊敬する父」も「自分を受け止めてくれる母」も失ってしまったアムロだからこそ―――というのが、『ガンダム』全体の肝になっていくんですが。それはまた別の機会に語ろうと思います。
(関連記事:アムロ・レイは誰を殺すのか)
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