※ この記事は2012年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
故あって、昨年末からテレビ版の『機動戦士ガンダム』を観返していました。『AGE』でも『UC』でもなくて、一番最初の『機動戦士ガンダム』をです。チマチマ観ているので、今は18話「灼熱!アッザムリーダー」の回を観終わったところです。
自分が『ガンダム』を通して観るのは3回目か4回目だと思うんですが、観る度に違う視点で観ることが出来るし、その度に新しい発見があります。
中には「こんな重要なことをどうして今まで見落としていたんだろう!」と思うこともあります。今日はその中の代表的な話―――「アムロは“敵”をどう認識していたか」という話を書きます。
この話は、恐らく『機動戦士ガンダム』において1番か2番に来るであろう重要なメインテーマだと思います。なので「え!?今更その話!?」と思う人もたくさんいるでしょうけど、自分のように何故だか今まで考えもしていなかった人もいると思いますんで書いておこうかなと思ったのです。
○ 「ザクは殺せる」「だけど人間は殺せない」
テレビアニメ版の第2話「ガンダム破壊命令」にて、こういうシーンがあります。
この回は連邦軍の新兵器の情報を探るために、シャアが生身(ノーマルスーツ)でコロニーに潜入してくるという回で―――逃げようとするシャア達をアムロはガンダムのビームライフルで撃とうとするのだけど、どうしても撃てません。しかし、その後に彼らがザクに乗り込んで戻ってくると、アムロは「相手がザクなら人間じゃないから撃てる!」と言うのです。
私はこのシーンはずっと「敵が生身なのにガンダムで攻撃するのは卑怯」「ザクとガンダムならモビルスーツ同士だから卑怯ではない」みたいな武士道精神なシーンだと思っていました。でも、後々の展開を観ていくと、違う解釈をした方が説明が付くのです。
文字通り、アムロは「ザクは人間ではない」と思っているんです。
正確に言うと“そう思いこもうとしていた”というか。
アムロという主人公は、(父親はガンダムの開発者ですけど)単なる機械好きの少年でしかありません。そんな少年がガンダムに乗り込んだのは、ザクによって住んでいるコロニーが攻撃され、近所の人が殺されるのを目の前で見たからで―――言ってしまえば、「悪いザク」から身を守るための自衛行動だったと言えます。
これは「ロボットアニメの視聴者」も同様で。
大人の視聴者はともかく、子どもの視聴者は「ガンダムはみんなを守ってくれる正義のロボット」「ザクは故郷を破壊する悪いロボットだ」くらいの認識だったと思いますし。『ガンダム』の序盤はそう思わせるためのシーンがたくさんあります。ホワイトベースの中の避難民の描写は、「この人達を守るためにガンダムが戦うんだ」と思わせるためでしょう。
つまり、『機動戦士ガンダム』の序盤というのは「子ども向けロボットアニメの構図」に見せかけて入っているのですし、アムロという主人公も「ザク=敵のモビルスーツ=悪いヤツ=やっつけて構わない」くらいの認識から始まっているのです。
○ イセリナ・エッシェンバッハ―――アムロが初めて対峙した“敵”
視聴者は「神の視点」を与えられていますから、連邦側の描写もジオン側の描写も見ることが出来ます。ジーンもデニムもスレンダーもガデムも視聴者は知っています。どんな風貌でどんな年齢でどんなことを考えているかも知っています。
でも、アムロは彼らを知らないんです。アムロは自分が殺してきた敵のパイロットを「ザク」としか認識していないからです。
『機動戦士ガンダム』という作品には、このように「それぞれのキャラクター」と「視聴者」が知っていることに差があるという箇所がたくさんあります。
分かりやすい例を一つ挙げると―――連邦側からすると「ホワイトベース」「ガンダム」という名前で呼ばれているものが、ジオン側は正式名称を知らないので「木馬」「連邦の新型モビルスーツ」と呼んでいる、とかね。ジオン側が正式名称を知るのは、恐らくランバ=ラルの部下のコズンが通信で情報を送ってからだと思います。
え?「ガルマがホワイトベースの名前を言っているシーンが1回あったような…」って?
そんな細けえことは気にすんなよ!!
話を元に戻します。
視聴者は死んでいったジオン兵を知っているのだけど、アムロは誰一人知らない―――なので、10話「ガルマ散る」までのアムロの物語は内に向かっている話なんですよね。ブライトがムカつくとか、リュウが作戦を全然理解していないとか、カイはなんであんなイヤミばっか言うんだとか、そんなんばっか。
唯一知っている敵は“シャア”なのだけど、それも観念的というか、実態の知れない「なんかすげーやつ」みたいなふわふわした捉えどころだという。アムロがシャアと対峙するのはもっともっと後半になってからですし。
しかし、事態は一人の女性によって変わります。
10話「ガルマ散る」でガルマが死んだ後、11話「イセリナ、恋のあと」でイセリナ・エッシェンバッハがあだ討ちにやってきます。この回を初めて観た時、自分はどうして民間人のイセリナがガウに同乗してくるんだよと唖然としたのですが―――
「アムロは“敵”をどう認識していたか」という視点で考えると、超重要な回だったのですね。
他のジオン兵士もみな死んだ後、イセリナは銃を構えてアムロの前に現れます。
それが、アムロにとって初めて敵と生身で向き合った瞬間でしたし――――イセリナは「ガルマ様の仇」と言って力尽きてしまいます。アムロはその「仇」という言葉を忘れられません。
アムロはガルマなんて知らないんです。
名前くらいは聞いたことがあったでしょうけど、会ったこともなければ、どんな性格でどんな言葉を発してどんな人が好きだったかなんか一切知らない相手です―――でも、いつの間にか自分がその男を殺していた(本当に殺したのはホワイトベースの砲手ですけど)。
その言葉がショックで、アムロは続く12話「ジオンの脅威」で戦意喪失してしまいます。
リュウの荒療治と、ランバ=ラルとの戦いで我に返ったアムロでしたが―――その後にギレン・ザビの演説のテレビ中継を観ることとなります。それまで実態の分からなかった敵の姿を観たアムロは、初めてここで自分が戦っている相手を知り、「これが……敵」と呟きます。
もう、この時点でアムロには「敵=ザク」という認識はありません。
ザクの中には兵士が乗っていて、自分が戦っているのはジオンの兵士だと分かったのです。
というところで1クール目終了。
こう振り返ると、「アムロは“敵”をどう認識していたか」は重要な要素だって見えてきますよね。
○ ククルス・ドアン、そしてランバ=ラルとの出会い
13~15話は怒涛の1クール目が終了した後の小休止的な1話完結エピソードです。
しかし、この3話というのが「その時点でのアムロの心理」を見事に描いているんですね。
15話「ククルス・ドアンの島」にてアムロはドアンに「僕達はジオンの侵略者と戦っているんですよ!」と言っています。12話より以前のアムロからはイメージ出来ないセリフですし、後々のアムロからもイメージ出来ないセリフです。
13話「再会、母よ…」で生身のジオン兵を撃ったことを母に咎められたアムロは「これは戦争なんだよ!」と言い返します。また、ここで母が「あの人にだって家族がいるだろうに…」と一番言われたくないことを言うのもニクく、アムロがもう引き返せないところまで来てしまったことを感じさせます。
14話「時間よ、止まれ」では、ガンダムに爆弾を仕掛けようとした生身のジオン兵をアムロはガンダムで攻撃します。「出てきたお前達が悪いんだぞ!」と辛そうでしたが、生身のシャアを撃てなかった2話とは違ってちゃんと生身のジオン兵を撃ったのです。
この時期のアムロは「敵=ジオン兵=悪いヤツら」と認識しているのです。
認識に更なる変化が出始めたのは15話でククルス・ドアンに会ったというのが一つあると思います。あの回、追っ手のジオン兵には何の描写もないのがアレなんですが、脱走兵とは言え、生身の元ジオン兵と出会ったことはアムロに影響を与えたと思います。
18話「灼熱!アッザムリーダー」にて、生き残ったジオン兵をアムロが助けようとするシーンがありますからね。
しかし、何と言っても大きいのは、その後にランバ=ラルとハモンに出会ったことでしょう。
違う出会い方をしていれば分かり合えたかも知れない彼らと出会い、戦い、殺すしかなかったあの展開でアムロは大きく成長します。それは「男としての成長」もさることながら、「自分が戦っている敵」をようやく認識した瞬間だったとも思うのです。
アムロが戦っている相手は、感情のない“ザク”でもなければ、得体の知れない“悪”でもなかったのです。仲間がいて、恋人がいて、誇りを持って、それぞれの理由で戦っている“人間”だったのです。ランバ=ラルとの出会いはそれをアムロに気付かせてくれたのです。
さて、いよいよ来ました。
この延長線上にあるから意味があるんですよね―――『機動戦士ガンダム』終盤で最も「よく分からなかった」と言われるララァ・スンとの出会いと、「ニュータイプとは何か」という話。
○ ニュータイプとは何だったのか?
アムロが戦っていたのは最初は「ザク」でした。
しかし、イセリナとの対峙で自分が戦っているのは「ジオン兵」だと分かり、ギレンの演説後「ジオン兵=悪」という認識で戦うようになります。
しかししかし、ククルス・ドアンやランバ=ラルとの出会いでジオン兵も「自分と同じような人間」だと分かり――――アムロは戦いを通じて「自身が認識している世界」を広げていったのです。そして、ニュータイプというのはこの延長にあるんです。
自分が戦っている相手を正確に認識できれば、相手が何を望み、何を考え、何のために生きているかが分かるわけで―――理想論で言えば、「じゃあ殺しあう必要なんてないはずじゃないか」となります。
しかし、アムロが認識している世界を広げられたのは、たくさんの敵を殺したからですし。本来なら「分かり合う」ことに使われるべきこの力が、戦争に利用されたことで、最も分かり合える相手同士なはずのアムロとララァは殺しあわなければならなくなるのです。
だから悲劇なのです。
「アムロは“敵”をどう認識していたか」の流れを見ていなければ、ララァ・スンとの描写は唐突でオカルト的なものにしか見えないことでしょう。生まれつきエスパーだった者同士がテレパシーで会話してるようにしか見えないでしょう。
しかし、違うんです。
少なくとも作中の描写を見る限り、アムロは最初ニュータイプではないんですよ。
シャアが「見える!私にも敵が見えるぞ!」でニュータイプに覚醒したように、アムロもまたたくさんの兵士を殺し、イセリナに会って、ククルス・ドアンに会って、ランバ=ラルに会って、ララァに会って、段階的に「自分が認識出来る世界」を広げていったんです。それがニュータイプなんです。
それでも戦いは避けられなかった―――だから悲しいのですし、
だからこそ、そこに一筋の光を見せた最終話のラストシーンに意味があるんです。
少なくともテレビアニメ版において、「ニュータイプ」という言葉は後半まで出てきません。
それは別に後付設定なわけではなくて、第2話の「生身のシャアを撃てないアムロ」からずっと描写が繋がっているのです。だから、アムロが敵を正確に認識できるようになった後半まではこの言葉が出てこないんです。
当然これらの話は作品全体に込められている「反戦」のメッセージとも無関係な話ではありません。
それをちゃんと描いた『機動戦士ガンダム』はやはり奇跡の傑作なんだと思います。
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