帰る場所を探すストーリー。 『機動戦士ガンダム』全話を視聴し直して



※ この記事は2012年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です

※ この記事はテレビアニメ版『機動戦士ガンダム』全43話のネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。

 昨年末からチョコチョコと続けていた、3度目か4度目の視聴となるテレビアニメ版『機動戦士ガンダム』の全話視聴がようやく終わりました。子どもの頃に観た時はもちろん、20歳前後に観た時でも分からなかったことに今回はたくさん気付けたので、このタイミングで全話視聴して本当に良かったと思います。

 その中の一つは、以前に書いた「アムロ・レイは誰を殺すのか」という部分。
  序盤はよくある子ども向けロボットアニメと同様に「ガンダムは正義の味方、ザクは悪いヤツ」と思わせるところから始まり、徐々にアムロが“自分が戦っている相手は誰か”を認識していくのです。今までは全く気付いていなかったのですが、そういう視点で見ると、物凄く計算された全体のストーリーになっていることが分かりました。


 そして、もう一つが今日書く話です。
 中盤まではアムロが“自分が戦っている相手は誰か”を認識するというメインストーリーになるのですが……そこから先は戦争を終わらせるために戦っているアムロに対して、「戦争が終わっても、オマエにはもう帰る場所がないよ」と残酷なまでに突きつけているのです。

 これもまぁ、今までどうして気付いていなかったのかという話なんですが。
 「僕にはまだ帰れる場所があるんだ」という超有名なセリフの意味を、私は本当の意味では分かっていなかったんですね。何となくなセリフとしか思っていませんでした。





○ 故郷を失った者達のストーリー
 今ではもはやテンプレとなってしまっていますが、『機動戦士ガンダム』のストーリーの導入部分は「(どこかで戦争は起こっていたけど)ただ平穏に暮らしていた少年少女が突然戦争に巻き込まれて故郷を追われる」というところから始まります。
 ブライトとリュウは違いますし、セイラもちょっと微妙ですけど、アムロもフラウもカイもハヤトもミライさんも「ただあのコロニーで暮らしていた」だけなんです。それが、二機のザクによって故郷を破壊され、家族や近所の人を殺され、生き延びるために武器を取るところから始まるんです。


 言ってしまえば、最初から彼らは「帰る場所を失っている」んですね。
 ルナツーに逃げて、地球に降りて、ジオンの追撃から逃げ回って、ジャブローにたどり着いたとしても、彼らはまた戦場へと送り込まれるのです。


 アムロにとってもそう。
 彼の生まれ故郷は地球だったため、故郷に残った母を訪ねるエピソードが第13話にあります。しかし、たくさんのジオン兵を殺し、イセリナに「仇」と言われたアムロはもう母の元に帰ることが出来ません。
 「戦争をしている」と自覚してしまったアムロと、「相手にも家族がいるだろうに」なんて言ってしまう母は、もう違う世界に生きている人になってしまったのです。


 サイド6でたまたま父と再会したことも悲劇の一つです。
 機械いじりが趣味だったアムロにとって、父親は恐らく「最新鋭の兵器を作っている超エリート」という尊敬の対象だったと思われます。人間的にはアレな人であっても、息子にとって「越えられない父親の壁」だったんです。
 しかし、戦争によって生き別れ、生きるか死ぬかの戦いを続けて成長せざるを得なかったアムロは、尊敬していた父親なんてとっくの昔に越えてしまっていたのです。父はもう父でいてくれず、アムロは大人として一人で歩いていくしかなくなるのです。

(関連記事:アムロが父との再会で見たもの




 アムロにはもはや「帰る場所」がないのです。
 生き残るためにガンダムに乗ってジオンの兵士を殺している―――けれど、この戦争に勝ったとしても自分が帰る場所なんてどこにもない。

 自分が20歳前後の頃に『機動戦士ガンダム』全話を見てもこの部分がピンと来なかったのは、仕方ないのかも知れません。
 漫画でもアニメでもゲームでも、最終決戦に向かう際には「悪いヤツをやっつけて世界を平和にしよう!」とか「みんなを守るために戦うしかないんだ!」というモチベーションで向かっていく作品が多いと思います。せいぜい「相手の言うことも分かるけど多数を守るためには戦うしかないんだ!」くらいでしょう。


 「俺、この戦いが終わってももう何も残ってねえんだ」という作品ってあんまりないじゃないですか。だから当時の自分には実感が湧かなかったんです。
 しかし、個別のタイトルの名前を出しちゃうと結末のネタバレになってしまうんで書きませんけど、富野監督の作品って実はこういう作品が多いんですよね。戦いに勝っても悲壮感しかない―――そうやって富野監督は反戦を訴えていたのかなぁとも思います。


 ということで、自分が長年「何を言っているかよく分からん」と思っていたララァ・スンとのシーンも、こういう視点で見るとすんなり分かりました。そりゃこういう視点がないと理解できないよね、と今なら思うんですけどね。



○ 俺、この戦争が終わったら結婚しようと思っている人もいないんだ……

ララァ「何故?何故なの?何故あなたはこうも戦えるの?あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ「守るべきものがない?」
ララァ「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ「だ、だから……どうだって言うんだ?」

アムロ「守るべきものがなくて戦ってはいけないのか?」
ララァ「それは不自然なのよ」
アムロ「では、ララァは何だ?」
ララァ「私は救ってくれた人の為に戦っているわ」
アムロ「たった……それだけの為に?」
ララァ「それは人の生きる為の真理よ」

アムロ「では、この僕達の出会いはなんなんだ?」
ララァ「ああっ」

ララァ「これは?これも運命なの?アムロ」

<第41話「光る宇宙」より抜粋>

 『機動戦士ガンダム』におけるアムロの「成長」は、「自分が戦っている相手が誰なのか」を理解する様によって描かれています。ククルス・ドアンやランバ・ラルとの出会いによって、「相手も家族や恋人がいる人間なんだ」が見えてくるようになり、それは「目に見えないものも認識できる」ニュータイプ論にも繋がった話です。



 だから、お互いがお互いを「理解し合える」はずのララァ・スンとの出会いは悲劇なのです。

 アムロにはもう「故郷」もない、「家族」とも離別した。
 ただ「戦争を終わらせる」ために戦争をしているだけなのです。

 政治のことも思想のことも分からず、ただシャアのために戦うララァとは違うのです。


 だけど、互いに「帰る場所」になれるかも知れないことを、二人とも分かってしまった――――
 なのに、アムロはララァを殺してしまったんです。




 「帰る場所」を失い、戦場を彷徨い続けて、ようやく出会えた「帰る場所」になってくれるかも知れなかった女性を、アムロは殺してしまった――――全てを失ってアムロは最後の戦いア・バオア・クーに向かうのです。





アムロ「フラウ・ボゥ、どんなことがあってもあきらめちゃいけないよ。こんなことで死んじゃつまらないからね」
フラウ「…ありがとう、アムロ。あきらめないわ、絶対に」
アムロ「さすがフラウ・ボゥだ。じゃ、またあとでね」
フラウ「アムロも無茶はダメよ」
アムロ「ああ」

<第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」より抜粋>


 ご丁寧に次の回、ア・バオア・クーでの最終決戦に向かう直前にアムロとフラウが話すシーンがあります。しかし、この後、ハヤトがフラウに話しかける様子をアムロが見つめて出撃していくのです―――

 フラウは、ひょっとしたらアムロにとって「帰る場所」になれたかも知れない女性だった。
 しかし、もうそうはなれない。フラウもまた、母や父やララァのように「帰る場所」にはなってくれなかったのです。正真正銘、アムロは全てを失って最後の戦いに向かうのです。




 過酷な戦いの中で、自身の拠り所になっていたガンダムは大破。
 暫定的な「帰る場所」になっていたホワイトベースも沈みます。



セイラ「み、みんなの所になんか…い、行けない。行ったって、生きのびたって兄さんが…」
<第43話「脱出」より抜粋>


 これはセイラさんのセリフですが、他のキャラクターの気持ちも代弁してくれていると思うのです。
 戦争は色んなものを奪っていった。故郷も、家族も、恋人も。大切なものを全て失ってでも、それでも生きる意味はあるのか―――死の際で彼らは問われるのです。



アムロ「…ララァの所へ行くのか」
ララァ「殺しあうのがニュータイプじゃないでしょ」
アムロ「えっ?そ、そうだな。どうすればいい?」

<第43話「脱出」より抜粋>


 全てを失ったアムロを、ララァが導きます。
 「自分達は決して戦争をするために生まれてきたワケではない」のだと。

 アムロは心の声でセイラさんを導き、ブライトさんを導き、ミライさんを導き、ホワイトベースのみんなを救います。最後の最後―――アムロだけが助からずに死んだと思われたところ、カツ・レツ・キッカの声によって今度はアムロが導かれます。


アムロ「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。こんなに嬉しいことはない。
 分かってくれるよね?ララァにはいつでも会いに行けるから」

<第43話「脱出」より抜粋>



 たくさんの人を殺した。
 故郷を失い、家族とも別れ、愛する人になってくれるかも知れなかった人も殺してしまった。
 ガンダムも、ホワイトベースも、もうない。



 でも、それでも「生きていいんだ」と、この作品は描いているんです。
 生き残るためにたまたま協力し合う関係だったし、何度も何度も衝突した、「かけがえのない友人」だなんて決して言えない関係だけど―――それでも、「生きて」と願う人がいてくれるなら、自分は「生きていいんだ」。この作品は最後にそう描いていたんです。


 絶望的な殺し合いの向こうにだって、一筋の希望がある。
 これを描いていたからこそ『機動戦士ガンダム』は名作になりえたのだと思うのです。







 だから私が『Zガンダム』を嫌いなのも仕方ないですよねっ!!

 「全てを失ったとしても生きてイイじゃないか!」と描いて締めくくった作品のその後を描いて、「あれ……?生き残っても碌なことがないじゃないか……」という彼らのその後の人生を見せ付けられたら、そりゃあ「あの感動が台無しだよ!!」と言いたくもなります。

 いや、今回『ガンダム』全話を視聴し直すまでよく分かってなかったんですが(笑)



 こないだの『けいおん!』の記事(※ この記事はまだ新ブログに移行していません)にも通じる話なんですが、終わった話の続きを見せられるとやはり「こんな○○は見たくなかった!」と思ってしまうんです。

 そりゃーね、『ガンダム』最終話のアムロは15~16歳ですから「そうだよ!僕は生きててイイんだ!」なんて現実が見えていないことを言っちゃって、後で痛い目を見て、「やっぱあん時に死んでおけば良かったなぁ……」と塞ぎこんでいるくらいがリアルなのかも知れませんけどさ!

 そこは夢を見させてくださいよ!
 唯にはいつまでも「目指せ!武道館!」と言ってて欲しかったんですよ!(色々ゴッチャになっとる)




 ともかく『機動戦士ガンダム』再視聴も超面白かったです。

 また10年後くらいに観返すと、またまた新しい発見があるのかもなーと楽しみにしておきます。


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