「強い敵に挑む主人公」の物語と、「強い主人公に挑む敵」の物語


<画像は漫画『幽☆遊☆白書』第13巻より引用>


※ この記事は2014年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です

※ この記事は漫画版『幽遊白書』全19巻と、漫画版『ハンター×ハンター』32巻までのネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。



 最近Twitterでよく見かけるのが「俺TUEEE系作品」の話題。
 私はその例として挙げられている『ソードアートオンライン』や『魔法科高校の劣等生』を読んでいないし観ていないので、否定も肯定も出来ませんし、どこが議論のポイントになっているのかもよく分かっていないのですが……この話題をきっかけに思い出した、すごく面白い記事がありました。



 ジョジョの第二部と第三部はお話の構図が対照的だと思った不倒城さん)

 しんざきさんの切り口は「言われてみて初めて気付いたけど、どうして今まで気付かなかったんだ!」と腑に落ちるものばかりですが、この記事もまさに。どうして今まで気付かなかったんだ!と、読んだ当時悔しさすら感じました。


 『ジョジョの奇妙な冒険』第二部は、「柱の男」達という超超超強い敵との戦いの物語でした。どのくらい超超超強いかと言うと、第一部でアレだけ主人公達を苦しめた「吸血鬼」を食糧としてしか見ていないくらいの強さです。「食物連鎖の頂点」であり、インフレバトルの頂点。
 それに挑む主人公ジョセフ・ジョースターは、「柱の男」達よりも圧倒的に弱いのだけど、ありとあらゆる手を使って最強の敵を何とかして倒していくのです。つまり、『ジョジョ』二部は「最強の敵」に「搦め手で挑む主人公」を描く物語なのです。


 それと対照的に、現在アニメが放送されている『ジョジョの奇妙な冒険』第三部は主人公チームがムチャクチャ強いです。主人公である空条承太郎がそもそも作中で最強クラスの強さであるのに加え、仲間達もそこそこの強さと知性とメンタルを持ち合わせていて、磐石のチームと言えます(※1)
 ディオからの刺客として主人公チームに挑むスタンド使い達は、なので「ありとあらゆる手を使って主人公達を倒そう」としてきます。正攻法では適わないから、正体を隠し、標的を一人ずつ、暗殺者のように狙ってくるのです。もし正攻法で戦ったのなら主人公チームが瞬殺できるような相手にも苦しめられる恐怖がありますし、敵側も「承太郎には絶対に適わないから、ポルナレフだけを狙おう」みたいなことをやってくるのです(笑)。

 つまり、『ジョジョ』三部は「最強クラスの主人公チーム」に「搦め手で挑む敵」を描く物語なのです。

(※1:流石に終盤は敵も鬼のような強さになっていきますが、その辺はネタバレになるので伏せておきます)



 さて、何故このタイミングで2年前のしんざきさんの記事を思い出したかと言うと……
 先日『幽遊白書』についての記事を書いて、『幽遊白書』の「バトルの描き方」の変遷を見ていったことで……この『ジョジョ』二部と三部の話に当てはめられるなと思ったのです。


 いや、もっと言うと……
 全てのバトル漫画やスポーツ漫画は、『ジョジョ』二部のような「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語と、『ジョジョ』三部のような「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語で分析・説明できるんじゃないかと思ったのです。



 では、『幽遊白書』を例に出すと……
 霊界探偵になったばかりの幽助の戦いは、「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語なのです。剛鬼にしろ、飛影にしろ、牙野にしろ、風丸にしろ、乱堂にしろ、全て普通の状態で戦ったら幽助は適わない相手です。じゃあどうやって倒すのか―――で使われるのが「1日1発しか撃てない霊丸」で、この一撃でのみ幽助に逆転のチャンスが与えられているのです。

 四聖獣編も、「飛影vs青龍」は例外ですが、「蔵馬vs玄武」も「桑原vs白虎」も「幽助vs朱雀」も全て敵側の方が強いところを逆転の一手で打ち破るという戦力構造になっているのです。この頃の『幽遊白書』は『ジョジョ』二部的な物語と言えるのです。


 しかし、これが暗黒武術会に入ると戦力構造が変わります。
 最初に戦う六遊会チームは、「蔵馬vs呂屠」は微妙ですが、「桑原vs鈴駒」「幽助vs酎」は“実力が近しいもの同士の対決”になっています。結果こそ瞬殺でしたが「飛影vs是流」も未完成の黒龍波を使わざるを得なかったくらいなので、実力差はそれほど大きくなかったと思います。

 六遊会チーム戦は、戦力差のあまりないチームとの真っ向勝負だったと言えます。


 Dr.イチガキチーム戦は、ガチンコの戦いが出来なかったので省くとして……


 続く魔性使いチーム戦、裏御伽チーム戦は……「幽助vs陣」のような例外もありますが、基本的には主人公チームの方が戦力が充実してしまっているため、主人公チームにのみハンデを背負わせ敵側も搦め手を駆使して戦うようになりました。
 魔性使いチーム戦は大会運営サイドからの罠で「2人vs5人の勝ち抜き戦」にさせられた上に、蔵馬は1戦目で妖気を封じられて大ピンチになりましたし。裏御伽チーム戦は幽助と覆面戦士不在な上に、特殊な闇アイテムを駆使して実力以上のものを見せる敵に苦戦させられました。


 この二戦は『ジョジョ』三部のような「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語の傾向がありますし、「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語の究極だった戸愚呂チーム戦を経て、暗黒武術会以後の“魔界の扉”編はまさにそういう話になっていきます。
 仙水忍を例外とすれば、“魔界の扉”編に出てくる敵は「強さ」という点では大したことのない連中ばかりです。しかし、主人公達の能力を研究し、「相手の力を最小限に抑え、自分達の能力を最大限に生かす戦法」を取ってくる相手に苦しめられるのです。

 そもそも“領域(テリトリー)”が“幽波紋(スタンド)”のパロディだから当然なのかも知れませんが、この時期の『幽遊白書』は『ジョジョ』三部のような「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語だと言えるのです。

(関連記事:“パクリ”と紙一重の“パロディ”だった『幽遊白書』



 「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語と、「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語―――どちらが面白いかと言うと、どちらにもそれぞれちがった面白さがあるとしか言いようがないのですが。『ジョジョ』にしろ『幽白』にしろ、「強い敵に挑む主人公」→「強い主人公に挑む敵」の順に戦力構造が変わっているというのが興味深いです。

 『幽遊白書』は確か作者に「途中から主人公達を描くのに飽きてしまい、敵側を描く方が楽しくなった」と言われていたと思うのですが、まさに今回の話に繋がると思うのです。「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語はネタに限界があるのです。
 吸血鬼が出てきましたー→強いですー→何とか倒しましたー→もっと強い柱の男が出てきましたー→超強いですー→何とか倒しましたー、という流れで、もし第三部で単純に「柱の男よりももっと強い敵」を出しただけだったら強さのインフレが進むだけだったと思いますし。読者としても“慣れ”てしまいます。


 『幽遊白書』もこのワンパターン化を防ぐため、剛鬼戦・飛影戦は「霊丸で逆転して何とか倒す」、乱童戦は「霊丸使えない状態で何とか倒す」、朱雀戦は「命を削ってでも倒す」、戸愚呂兄弟戦は「味方を撃ってでも倒す」と工夫を凝らしていましたが……
 暗黒武術会に入ってからは戦力構造を変えて、「敵側が搦め手を使ってくる」ようになるというのは―――「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語の方が、構造的に次から次へと新しい敵を出せるのでネタが続きやすいところがあるのかなと。


 「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」はどんどん強い敵を出さなければいけませんが、「強い主人公に“弱者”である敵が挑む」物語は敵が弱ければ弱いほど面白いですからね。
 こんなに弱い敵に、強い主人公が苦しめられるのにハラハラドキドキさせられるのです。『幽遊白書』で言えば、「影を踏まれただけで負ける」「あついと言っただけで負ける」みたいな。搦め手で挑んでくる敵は、作者のアイディアが続く限りはずっと新しいことが起こせますし、個性的な戦いをしてくる敵を出せますし、作品の寿命を長引かせる効果があるとも言えます。




 『ジョジョ』や『幽遊白書』に限らず、色んな作品を「強い敵に挑む主人公」の物語と「強い主人公に挑む敵」の物語という切り口で分析してみると面白いと思います。

 例えば『ドカベン』も、不知火や土門と戦う時は「超強い敵に主人公達が挑む」戦いと言えるのだけど、明訓高校が常勝チームになっていくと搦め手を駆使するブルートレイン高校や山田を全打席敬遠する中二美夫のように「強い主人公に搦め手で挑む敵」が現れたりするという。

 『スラムダンク』は基本的に敵側の方が強いチームのことがほとんどで「強い敵チームに挑む主人公チーム」の物語なのですが、ネタバレになるのでどの試合かは言いませんけど、大量点をリードして追われる身になって初めて自分達が分析されて追い詰められるという試合があります。あの試合の終盤は「強い主人公チームに挑む敵チーム」の物語になっているとも言えますね。




 多くのバトル漫画やスポーツ漫画は、「強い敵に挑む主人公」の物語と「強い主人公に挑む敵」の物語の両方を併用していると思いますし。併用することによって、どちらか一辺倒になるワンパターン化を防いでいるとも言えますね。『幽遊白書』において搦め手を駆使していたはずの仙水忍こそが実は最強だったというのは、冨樫先生流の“ハズシ”だったと考えれば合点がいきます。


 「俺TUEEE系作品」への批判については、私はそれらの作品を読んでいないし観ていないので何とも言えないのですが、議論の根本にあるものは「主人公が最強かどうか」よりも「ワンパターン化しているかどうか」にあるんじゃないかなと『ジョジョ』と『幽遊白書』の話を考えて思った次第であります。

 また、「超強い主人公」をわざわざ描くのは、その「超強い主人公」を描きたいというよりかは「その超強い主人公に挑む敵キャラ」を描きたいって作者も多いと思います。そういう戦力構造の方が個性的な敵キャラを次々と出せますからね。
 「超強い主人公」だけを見て、作者や読者に対して「現実で何も出来ない人が超強い主人公に自己を投影しているに過ぎない」とか言う人いるんですけど、主人公だけで作品が出来ているワケじゃないのですよ!



○ 余談:実は『幽遊白書』とはちがうアプローチの『ハンター×ハンター』
 ここからは余談です。
 霊丸の話と今回の話と、『幽遊白書』のバトルの変遷を連続で振り返ってみて思ったのですが……同じ作者の漫画である『ハンター×ハンター』は、一貫して「強い敵に挑む主人公」の物語なんですよね。


 序盤こそゴンが「飛びぬけた才能を持った野生児」として描かれていますが、ハンター試験編→天空闘技場編ではヒソカの方が遥かに格上だと描かれていますし、ヨークシン編では幻影旅団の方が遥かに強いと描かれていますし、グリードアイランド編では“爆弾魔”の方が実力者でしたし、キメラアント編もキメラアント軍団の方が圧倒的に戦力が整っています。

 『幽遊白書』が「強い敵に挑む主人公」の物語→「強い主人公に挑む敵」の物語に変遷していったのとは対照的に、『ハンター×ハンター』はずっと「強い敵に挑む主人公」の物語なんですね。だからこそ、ずっと「ゴンとキルアの成長物語」でい続けられたのですが。



 『ハンター×ハンター』は『幽遊白書』よりもよっぽど長期連載になっているのだけど、どうしてそれで「ネタギレ」とか「主人公を描くのに飽きる」とかにならないのかと言うと……『ハンター×ハンター』って、「○○編」で毎回“主人公チーム”が変わるんですよね。
 ゴンとキルアは毎回固定ですが、ヨークシン編ではクラピカ達の物語が並行して描かれていましたし、グリードアイランド編ではビスケだったりゴレイヌだったりが加わっていましたし、キメラアント編では会長やナックル&シュートなど多数の仲間とチームを組んで戦う話でした。

 また、“主人公チーム”が変わるということと密接に関わっている話なんですが、『ハンター×ハンター』って別に「ゴンとキルアが敵をやっつけてメデタシメデタシ」みたいな終わり方をしないんですね。ハンター試験編ではヒソカに「借り」が出来たまま終わるし、天空闘技場編では試合に負けて終わっているし、ヨークシン編は団長を一時無力化しただけで終わってしまったし、グリードアイランド編だけは珍しくゴンとキルアが成し遂げて終わったのですが、キメラアント編はゴンもキルアも関係ないところで決着が付いてしまっていました。


 『幽遊白書』がキャラクター人気の非常に高いジャンプのバトル漫画の看板作品になってしまったために、主人公達を描くのに飽きてしまっても描き続けなければならなかったのとは対照的に。
 『ハンター×ハンター』はハンター試験が終わった時点で人気キャラのクラピカを別行動にまわす等、どんな人気キャラであっても主人公を変え続けることで作品としてのネタを保ち続けるという方法を選んだのかもなぁと思います。なので、『ハンター×ハンター』は『ジョジョ』二部的な「超強い敵に“弱者”である主人公が挑む」物語を、32巻までずっと続けられているという。


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