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<画像は『幽☆遊☆白書』6巻「B・B・C!!」より引用> |
※ この記事は、自分が前の前の前のサイトに載っけていた記事を思い出しながら2011年に旧ブログに書き直した記事を、更に幾つか手直しして2025年に移行した記事です
この話を載せるのももう3回目です。
最初は確か2004年辺りにB sideに書いたものだったはず。自分としてはお気に入りの記事だったのですが、当時はブログではなかったから読んでくださった人もそんなに多くはありませんでしたし、もうインターネット上から消失してログも残っていないので……勿体ないので、記憶が残っている間にもう1回書いてみようかなと思いました。
※ この記事は漫画版『幽遊白書』全編のネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。
『幽☆遊☆白書』とは1990~94年に週刊少年ジャンプにて連載されていた漫画で、後に『レベルE』『ハンター×ハンター』を描く冨樫義博先生の大出世作です。アニメ化もされて、『ドラゴンボール』『スラムダンク』とともに当時のジャンプ三枚看板と言われていました。
戸愚呂(弟)とは『幽遊白書』中盤に登場する敵キャラで、作品の内外に大きな人気を持つカリスマキャラでした。圧倒的な強さによって主人公達の成長を促し、初登場の6巻→最後に倒される13巻という長い期間、作品を引っ張り続けたのです。
やっとやっとやっとの思いで主人公が戸愚呂(弟)を倒した時には、長い長い旅の終着駅に着いたような達成感と寂しさがあったものです。
そんな戸愚呂(弟)が、倒されて数ヵ月後には「実はアイツB級妖怪だったんだぜ」と言われ、読者としては「ええええええええ、あんなに強かった戸愚呂(弟)がB級ーーーー」と釈然としない気持ちになり。
その後に出てくる仙水という敵キャラは(妖怪に例えると)S級妖怪クラスで、飛影と蔵馬もあっさりA級妖怪になり、そもそも飛影も蔵馬も元々はA級妖怪だったことが判明し。仙水編終了後はA級妖怪ですらザコキャラ化していくという……
『幽遊白書』=インフレバトル、という象徴のようなキャラになってしまいました。
……というのが、恐らく一般的に多い認識だと思うのですが。
さて、本当にそうでしょうか?
本当に戸愚呂(弟)は弱かったんでしょうか?
元A級妖怪の飛影や蔵馬が恐怖を感じていたのに、本当に戸愚呂(弟)は弱かったんでしょうか?
○ そもそも「●級妖怪」とは何か?
前に『ドラゴンボール』の「戦闘力」についての記事を書いたことがありましたが、『ドラゴンボール』の「戦闘力」は未知の敵の強さを事前に測ることで勝ち目のない戦いを避ける目的で測られている―――というのが私の見解です。
だから、『ドラゴンボール』の世界では「戦闘力」は絶対なんです。
戦闘力のコントロールや、変身なんかの例外を除けば、戦闘力1万の人が戦闘力1万2千の人には勝てないようになっているんです。
では、『幽遊白書』の「●級妖怪」というランク分けは何のために行われているのでしょうか?
これを行っているのは“霊界”です。
コミックス17巻で北神が「霊界側の能力基準で言いますと……」と言っていることから、霊界が設けた基準が魔界にも浸透して使われていることが分かります。
“霊界”が何故このようなランク分けをしているかというと、「妖怪の強さ」を把握することで対処を円滑に行うためと推察できます。つまり、“霊界”にとってどれだけ厄介な妖怪かをランク分けしているのだろうと思うのです。
霊界特防隊のセリフによると、「特防隊が力を合わせて互角に戦えるのがA級妖怪」「特防隊が力を合わせても適わないのがS級妖怪」という基準でランク分けがされているそうで。特防隊は霊界最高の戦士集団なので、「霊界の力で互角に戦えるのがA級妖怪」「霊界では適わないのがS級妖怪」と言い換えても良いと思います。
つまり、“霊界”が対処できるかどうかで、妖怪のランク付けが決まっているんですよ。
戦闘力のコントロールや、変身なんかの例外を除けば、戦闘力1万の人が戦闘力1万2千の人には勝てないようになっているんです。
では、『幽遊白書』の「●級妖怪」というランク分けは何のために行われているのでしょうか?
これを行っているのは“霊界”です。
コミックス17巻で北神が「霊界側の能力基準で言いますと……」と言っていることから、霊界が設けた基準が魔界にも浸透して使われていることが分かります。
“霊界”が何故このようなランク分けをしているかというと、「妖怪の強さ」を把握することで対処を円滑に行うためと推察できます。つまり、“霊界”にとってどれだけ厄介な妖怪かをランク分けしているのだろうと思うのです。
霊界特防隊のセリフによると、「特防隊が力を合わせて互角に戦えるのがA級妖怪」「特防隊が力を合わせても適わないのがS級妖怪」という基準でランク分けがされているそうで。特防隊は霊界最高の戦士集団なので、「霊界の力で互角に戦えるのがA級妖怪」「霊界では適わないのがS級妖怪」と言い換えても良いと思います。
つまり、“霊界”が対処できるかどうかで、妖怪のランク付けが決まっているんですよ。
『ドラゴンボール』の「戦闘力」が“強さの絶対値”を測るのだとしたら、『幽遊白書』の「●級妖怪というランク分け」は霊界サイドの能力を基準とした“強さの相対値”を決めているというカンジなんだと思います。ほら、段々と見えてきました。
○ 戸愚呂(弟)は強かったのか?
そもそも強さとは何でしょう?
戸愚呂(弟)は「B級妖怪」としてランクされていました。
暗黒武術会終了後の飛影も「B級妖怪」としてランクされていました。
二人とも、“霊界”からは「霊界の力で対処できる」と認識されていたということです。
『ドラゴンボール』の「戦闘力」のような感覚でこれを見ると「え!?戸愚呂(弟)ってそんなに弱くなかったよ!」と思ってしまうんですけど、“霊界”目線で考えればそんな不思議なことではないですよね。
この二人は「強さ」を得るためのコストが大きいんです。
戸愚呂(弟)は100%の形態になると「ひどくハラがへる」ため、周囲の弱い者をどんどん吸い込むという設定があります。これは、逆に言うと「100%の力を維持し続けるためには周囲に吸い込む者がなければならない」ということで、実はかなり状況が限定された上での強さなんですよね。
幽助と戦った武術会の決勝は大勢の観客がいたので片っ端から吸い込んでいましたが、こんな状況は滅多に起こりうることではありません。1万人規模の人数を集めるのが如何に大変か―――みなさんも分かりますよね。
飛影は炎殺黒龍波を極めたことで大きな力を得ましたが、黒龍波は「技を使った反動で数時間は完全に眠ってしまう」という致命的な欠陥を抱えています。
どんなに強力な相手でもこんなに分かりやすい弱点があるなら、それほど恐れたものでもない―――“霊界”がそう判断したとしても不思議はありませんし、戸愚呂(弟)があれだけ強いのにB級妖怪なのも納得が出来ますよね。
○ アンチ「インフレバトル漫画」
そもそも『幽遊白書』は「強い者が勝つ」という漫画ではありません。
「蔵馬vs鴉」戦も、「桑原vs戸愚呂(兄)」戦も、単純な強さだけならば相手の方が勝っていたでしょうが、蔵馬の場合は冷静な作戦と捨て身の攻撃によって、桑原の場合は感情の高ぶりによって勝利しました。
続く仙水編はもっと分かりやすく、「武術会優勝で強くなった味方サイド」vs「特殊能力に目覚めた人間」という構図になっています。
飛影は海藤に魂を抜かれ、幽助は刃霧にあと一歩のところまで追い詰められました。単純な戦力なら味方サイドの方が圧倒的に高いだろうに、限定条件化ならば弱者も脅威になるということを(武術会とは立場を反転させて)描いていたんですね。
この辺は『幽遊白書』が『ドラゴンボール』よりも『ジョジョ』の系譜にある“能力バトル漫画”だということを考えれば分かりやすいんですけど……
『幽遊白書』の捻くれ具合の凄いところは、こうやって“能力バトル”の駆け引きで展開していった仙水編のラストは、「超強くなっちゃった聖光気の仙水」を「魔族の血が覚醒してもっと強くなっちゃった幽助」が倒すという超インフレバトルで決着させちゃうところです。
冨樫先生は「パロディ」を作品の中に落とし込む作家なので、これはわざとやっていたんじゃないかなーと自分は思っています。
『ジョジョ』だと思って読んでたら、最後は『ドラゴンボール』になっていた―――みたいな。
いや、私は『ドラゴンボール』もインフレバトルだとは思っていないんですけど(笑)。
冨樫先生は意図的にこうやって「読者の慣れ」を裏切っているんだろうなと思います。
『幽遊白書』当時は『レベルE』も『ハンター×ハンター』もありませんでしたから、あの展開に「冨樫先生は狂ってしまったのか」「編集部とそんなに関係性が悪いのか」と心配してしまったし、そういう面もなかったワケではないのでしょうけど。
今思うと、あの展開も「冨樫流」ってカンジがするんですよ。
(関連記事:“パクリ”と紙一重の“パロディ”だった『幽遊白書』)
○ 戸愚呂(弟)は強かったのか?
そもそも強さとは何でしょう?
戸愚呂(弟)は「B級妖怪」としてランクされていました。
暗黒武術会終了後の飛影も「B級妖怪」としてランクされていました。
二人とも、“霊界”からは「霊界の力で対処できる」と認識されていたということです。
『ドラゴンボール』の「戦闘力」のような感覚でこれを見ると「え!?戸愚呂(弟)ってそんなに弱くなかったよ!」と思ってしまうんですけど、“霊界”目線で考えればそんな不思議なことではないですよね。
この二人は「強さ」を得るためのコストが大きいんです。
戸愚呂(弟)は100%の形態になると「ひどくハラがへる」ため、周囲の弱い者をどんどん吸い込むという設定があります。これは、逆に言うと「100%の力を維持し続けるためには周囲に吸い込む者がなければならない」ということで、実はかなり状況が限定された上での強さなんですよね。
幽助と戦った武術会の決勝は大勢の観客がいたので片っ端から吸い込んでいましたが、こんな状況は滅多に起こりうることではありません。1万人規模の人数を集めるのが如何に大変か―――みなさんも分かりますよね。
飛影は炎殺黒龍波を極めたことで大きな力を得ましたが、黒龍波は「技を使った反動で数時間は完全に眠ってしまう」という致命的な欠陥を抱えています。
どんなに強力な相手でもこんなに分かりやすい弱点があるなら、それほど恐れたものでもない―――“霊界”がそう判断したとしても不思議はありませんし、戸愚呂(弟)があれだけ強いのにB級妖怪なのも納得が出来ますよね。
○ アンチ「インフレバトル漫画」
そもそも『幽遊白書』は「強い者が勝つ」という漫画ではありません。
「蔵馬vs鴉」戦も、「桑原vs戸愚呂(兄)」戦も、単純な強さだけならば相手の方が勝っていたでしょうが、蔵馬の場合は冷静な作戦と捨て身の攻撃によって、桑原の場合は感情の高ぶりによって勝利しました。
続く仙水編はもっと分かりやすく、「武術会優勝で強くなった味方サイド」vs「特殊能力に目覚めた人間」という構図になっています。
飛影は海藤に魂を抜かれ、幽助は刃霧にあと一歩のところまで追い詰められました。単純な戦力なら味方サイドの方が圧倒的に高いだろうに、限定条件化ならば弱者も脅威になるということを(武術会とは立場を反転させて)描いていたんですね。
この辺は『幽遊白書』が『ドラゴンボール』よりも『ジョジョ』の系譜にある“能力バトル漫画”だということを考えれば分かりやすいんですけど……
『幽遊白書』の捻くれ具合の凄いところは、こうやって“能力バトル”の駆け引きで展開していった仙水編のラストは、「超強くなっちゃった聖光気の仙水」を「魔族の血が覚醒してもっと強くなっちゃった幽助」が倒すという超インフレバトルで決着させちゃうところです。
冨樫先生は「パロディ」を作品の中に落とし込む作家なので、これはわざとやっていたんじゃないかなーと自分は思っています。
『ジョジョ』だと思って読んでたら、最後は『ドラゴンボール』になっていた―――みたいな。
いや、私は『ドラゴンボール』もインフレバトルだとは思っていないんですけど(笑)。
冨樫先生は意図的にこうやって「読者の慣れ」を裏切っているんだろうなと思います。
『幽遊白書』当時は『レベルE』も『ハンター×ハンター』もありませんでしたから、あの展開に「冨樫先生は狂ってしまったのか」「編集部とそんなに関係性が悪いのか」と心配してしまったし、そういう面もなかったワケではないのでしょうけど。
今思うと、あの展開も「冨樫流」ってカンジがするんですよ。
(関連記事:“パクリ”と紙一重の“パロディ”だった『幽遊白書』)
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