
<画像は漫画『幽☆遊☆白書』12巻「危機感が足りない?」より引用>
あの記事で僕は「(前期)ドラゴンボールはかめはめ波が決め技にならない」「幽遊白書は霊丸が決め技になることが多い」と書き、両者を比較してみるのも面白いんじゃないかと提唱しました。しかしまぁ、それからよくよく考えてみると「ドラゴンボールの人造人間編」と「幽遊白書の暗黒武術会編」が同じくらいの時期なんですよね(92年辺り)。
『幽遊白書』が人気になり始めた頃には、既に『ドラゴンボール』は「どちらが凄いかめはめ波を撃てるのか」みたいな話になっていたという。ひょっとしたら当時の雑誌の編集方針とか社会情勢とかが関係しているのかも知れませんし、人造人間編と暗黒武術会編の最終決着シーンの類似点なんかを考えると意味深いものがあるのかも……
もちろん「必殺技が決め技になる漫画は面白くない」なんてことはなく、それこそ子どもの頃の僕は「かめはめ波が決め技にならない」ことにもどかしさを覚えていましたし、それぞれにそれぞれの良さがあるということは間違いないのですが―――当時人気絶頂だった『幽遊白書』を読みながら、小学生だった自分は冷静な目でこう考えていました。
「霊丸を使い切るまでは決着が付かないだろう」
体力が続く限り無尽蔵に撃てる『ドラゴンボール』のかめはめ波と違い、『幽遊白書』の霊丸には回数制限がありました(1日1発→1日4発)。これは“限られた条件の中でのギリギリの攻防”を描くためであって、その結果「これが最後の霊丸だ!」と撃って倒せないと勝ち目がなくなるという緊張感が生まれていました。
しかし、逆に言うと“最後の霊丸”までは「まだ1発残っているわ」と安心されてしまいますし、ギリギリの攻防を描くためには“残り1発”の状況まで持っていかなければなりません。
なので、戸愚呂弟に「おまえもしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と言われた際に、小学生の僕は「うん、だって霊丸がまだ2発残っているから、ストーリー上まだ決着が付かないでしょ?」と思ったものでした。我ながら、イヤなガキだったと思います。
これは実は「必殺技を決め技にする漫画」全般に思うことで、「天翔龍閃」が出てきた以降の『るろうに剣心』を読んでいても思っていました。「まだ天翔龍閃使ってないから決着付かないな」とか、「つか最初から天翔龍閃使っておけばイイんじゃね?」とか。
必殺技を決め技にしない前期『ドラゴンボール』の場合、「かめはめ波が効かない!」「元気玉でも倒せないだと!」と必殺技では倒せなかったところから本番が始まるとしていたようで……もちろん「必殺技で敵を倒す爽快感」ではなく「ボロボロの状態でフラフラになりながら何とか倒す」泥臭さになってしまうので、どっちがイイということではなくどの層に向けて描かれているかの違いだとは思うんですけど。
「何でもかんでも必殺技で決着が付く1パターン展開」を嫌ってか、以降の少年ジャンプではジョジョ的能力バトル漫画(『封神演義』とか)や決め技が一定ではないバトル漫画(『ワンピース』とか)が主流になっていくというのは面白い話だなと思いました。『ナルト』はあまり熱心に読んでいなかったので知らん。
そう言えばですけど……『幽遊白書』の幽助以外のキャラのバトルも考えると、「あとどんな攻撃が残っているのか」というのを逆手にとった展開になっているんですよね。
飛影の“1発しか撃てない”という設定の黒龍波だとか、“最後の一手”まで計算して戦う蔵馬とか、常に行き当たりばったりな桑原とか(笑)。
『ドラゴンボール』が「かめはめ波を決め技にしない」ことで1パターン化を防いでいたのと同じように、『幽遊白書』は「メインキャラ4人がそれぞれ違う戦い方をする」ことでバランスを取っていたのかなぁ……と。
そう考えると、『ドラゴンボール』とか『幽遊白書』って(計算か本能かはさておき)随分と練られていた作品だったんだなーと感心しますね。伊達に一時代を築いちゃいないです。
ついでに。
『ドラゴンボール』『幽遊白書』と同時代に三本柱と言われた『スラムダンク』―――日本中にバスケットボールの魅力を伝えたスポーツ漫画の金字塔でありながら、ジャンプ漫画らしい“必殺技”の要素も兼ね備えていて、桜木花道のスラムダンクが“決め技”のように描かれているんですよね。
もちろんスポーツ漫画なんで「桜木のスラムダンク=決着」という単純な構図では使われないんですけど、要所要所の大切なシーンでのみ登場するんですよ。ネタバレになるから具体例は出しませんけど、読者が「出た!桜木のダンクだ!」と爽快感を得られるタイミングで描かれるという。当然ながらこれは狙ってやっているワケです。
『スラムダンク』の末恐ろしいところは、それをスポーツ漫画の中にごく自然に溶け込ませているので。ジャンプ漫画らしい爽快感を求めている人にも、スポーツ漫画らしいリアリティを求めている人にも、魅力的に映るという。
“存在したことが奇跡のような漫画”という言葉では陳腐すぎるかも知れませんけど、『スラムダンク』はあの時期のあの少年ジャンプという雑誌でバスケットボールという題材で井上雄彦という信じられないほどの天才が描かなければ成り得なかったんだろうなぁとつくづく感じます。
※ この記事は2008年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
あの記事で僕は「(前期)ドラゴンボールはかめはめ波が決め技にならない」「幽遊白書は霊丸が決め技になることが多い」と書き、両者を比較してみるのも面白いんじゃないかと提唱しました。しかしまぁ、それからよくよく考えてみると「ドラゴンボールの人造人間編」と「幽遊白書の暗黒武術会編」が同じくらいの時期なんですよね(92年辺り)。
『幽遊白書』が人気になり始めた頃には、既に『ドラゴンボール』は「どちらが凄いかめはめ波を撃てるのか」みたいな話になっていたという。ひょっとしたら当時の雑誌の編集方針とか社会情勢とかが関係しているのかも知れませんし、人造人間編と暗黒武術会編の最終決着シーンの類似点なんかを考えると意味深いものがあるのかも……
もちろん「必殺技が決め技になる漫画は面白くない」なんてことはなく、それこそ子どもの頃の僕は「かめはめ波が決め技にならない」ことにもどかしさを覚えていましたし、それぞれにそれぞれの良さがあるということは間違いないのですが―――当時人気絶頂だった『幽遊白書』を読みながら、小学生だった自分は冷静な目でこう考えていました。
「霊丸を使い切るまでは決着が付かないだろう」
体力が続く限り無尽蔵に撃てる『ドラゴンボール』のかめはめ波と違い、『幽遊白書』の霊丸には回数制限がありました(1日1発→1日4発)。これは“限られた条件の中でのギリギリの攻防”を描くためであって、その結果「これが最後の霊丸だ!」と撃って倒せないと勝ち目がなくなるという緊張感が生まれていました。
しかし、逆に言うと“最後の霊丸”までは「まだ1発残っているわ」と安心されてしまいますし、ギリギリの攻防を描くためには“残り1発”の状況まで持っていかなければなりません。
なので、戸愚呂弟に「おまえもしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と言われた際に、小学生の僕は「うん、だって霊丸がまだ2発残っているから、ストーリー上まだ決着が付かないでしょ?」と思ったものでした。我ながら、イヤなガキだったと思います。
これは実は「必殺技を決め技にする漫画」全般に思うことで、「天翔龍閃」が出てきた以降の『るろうに剣心』を読んでいても思っていました。「まだ天翔龍閃使ってないから決着付かないな」とか、「つか最初から天翔龍閃使っておけばイイんじゃね?」とか。
必殺技を決め技にしない前期『ドラゴンボール』の場合、「かめはめ波が効かない!」「元気玉でも倒せないだと!」と必殺技では倒せなかったところから本番が始まるとしていたようで……もちろん「必殺技で敵を倒す爽快感」ではなく「ボロボロの状態でフラフラになりながら何とか倒す」泥臭さになってしまうので、どっちがイイということではなくどの層に向けて描かれているかの違いだとは思うんですけど。
「何でもかんでも必殺技で決着が付く1パターン展開」を嫌ってか、以降の少年ジャンプではジョジョ的能力バトル漫画(『封神演義』とか)や決め技が一定ではないバトル漫画(『ワンピース』とか)が主流になっていくというのは面白い話だなと思いました。『ナルト』はあまり熱心に読んでいなかったので知らん。
そう言えばですけど……『幽遊白書』の幽助以外のキャラのバトルも考えると、「あとどんな攻撃が残っているのか」というのを逆手にとった展開になっているんですよね。
飛影の“1発しか撃てない”という設定の黒龍波だとか、“最後の一手”まで計算して戦う蔵馬とか、常に行き当たりばったりな桑原とか(笑)。
『ドラゴンボール』が「かめはめ波を決め技にしない」ことで1パターン化を防いでいたのと同じように、『幽遊白書』は「メインキャラ4人がそれぞれ違う戦い方をする」ことでバランスを取っていたのかなぁ……と。
そう考えると、『ドラゴンボール』とか『幽遊白書』って(計算か本能かはさておき)随分と練られていた作品だったんだなーと感心しますね。伊達に一時代を築いちゃいないです。
ついでに。
『ドラゴンボール』『幽遊白書』と同時代に三本柱と言われた『スラムダンク』―――日本中にバスケットボールの魅力を伝えたスポーツ漫画の金字塔でありながら、ジャンプ漫画らしい“必殺技”の要素も兼ね備えていて、桜木花道のスラムダンクが“決め技”のように描かれているんですよね。
もちろんスポーツ漫画なんで「桜木のスラムダンク=決着」という単純な構図では使われないんですけど、要所要所の大切なシーンでのみ登場するんですよ。ネタバレになるから具体例は出しませんけど、読者が「出た!桜木のダンクだ!」と爽快感を得られるタイミングで描かれるという。当然ながらこれは狙ってやっているワケです。
『スラムダンク』の末恐ろしいところは、それをスポーツ漫画の中にごく自然に溶け込ませているので。ジャンプ漫画らしい爽快感を求めている人にも、スポーツ漫画らしいリアリティを求めている人にも、魅力的に映るという。
“存在したことが奇跡のような漫画”という言葉では陳腐すぎるかも知れませんけど、『スラムダンク』はあの時期のあの少年ジャンプという雑誌でバスケットボールという題材で井上雄彦という信じられないほどの天才が描かなければ成り得なかったんだろうなぁとつくづく感じます。
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