
<画像は漫画『ドラゴンボール』12巻其之百三十三より引用>

<画像は漫画『ドラゴンボール』35巻其之四百十五より引用>
※ この記事は2008年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
ドラゴンボール的「転回」とウルトラマンの関係。
能力系の漫画がインフレしにくい理由。
非常に面白い記事で、これだけで三日三晩は語り明かせそうですね。
僕は『ウルトラマン』はほとんど観たことがないんですけど、『Dr.スランプ』なんかにも『ウルトラマン』の影響はチラホラ見られるんじゃないかと思います。そもそもウルトラマンが普通にペンギン村に住んでいたし(笑)。
とは言え、僕のスタンスは上で紹介させてもらった記事とはちょっと違います。
「かめはめ波」のような光線技とスペシウム光線との関連性を指摘するのは面白いなと思う一方で、「そこに留まらなかったからこそ『ドラゴンボール』は今でも語り継がれる名作になった」とも思っています。
「かめはめ波」で思い出す話が一つ。
「天津飯にかめはめ波が効かないのなら、セルの撃つかめはめ波を弾き返してくれれば良かったのに―――」
これは『ドラゴンボール』の「長期連載がゆえの設定の矛盾点」としてよく指摘されるネタですね。
悟空と天津飯が初めて戦った際(11~12巻)、観客として観ていたクリリンと亀仙人の間に「あいつのことだから、ものすごいかめはめ波なのかも知れませんよ」「いいや…あの天津飯というやつ、かめはめ波そのものが効かんのじゃ。大小に関係なくな…」という会話があったにも関わらず。
そこから物凄い色んなことが起こった後、“敵なのにかめはめ波が使える”セルという敵が現れ、太陽系全てを吹き飛ばすほどのかめはめ波を撃ち合うというシーンが出てくるのです。これが35巻。その場に天津飯も居合わせ「俺達には何も出来ない」と絶望しているのだけど、「オマエ、大小に関係なくかめはめ波が効かないんじゃないのかよ(笑)」と読者にツッコまれていたという。
作者がそんな設定忘れていたとか、亀仙人の解説が大袈裟だったとか、そういうツッコミどころがあるから『ドラゴンボール』は面白いんじゃないかとか、色々と言えるとは思うんですけど……この2つのシーンは『ドラゴンボール』という作品を考える上で、非常に面白いシーンじゃないかと僕は考えています。
曰く、「かめはめ波は決め技ではない」という『ドラゴンボール』哲学の変化。
悟空が初めてかめはめ波を使ったのは2巻、その後もポイントポイントで悟空はかめはめ波を使うのですが―――スペシウム光線のように“相手にトドメを刺す一撃”として使われたのは、7巻の大ダコ戦が初めて(笑)。ボスクラスの敵としては12巻のタンバリン戦までないという。
何故こんなことを覚えているかというと、幼少期の自分は「必殺技のかめはめ波で華麗に敵をやっつけて欲しかった」のに『ドラゴンボール』ではそれをしてくれなかった印象があったからなんです。
僕がそれを求めていたのは恐らく、『ウルトラマン』から続いている特撮モノの王道である「最後に一番の大技で敵を倒す」こそが王道だと思っていたからなんでしょうね(『ウルトラマン』を観たことは僕はないのだけど、それに影響を受けた作品は観ていたという話)。
なので僕は、「かめはめ波」=「スペシウム光線」というよりも、そうならないように鳥山先生は絶妙のバランスで『ドラゴンボール』を描いていたんじゃないかと思うのです。これは以前にウチのブログにも書いたことなんですけど、「インフレバトル」の代表のように言われる『ドラゴンボール』こそが「インフレバトル」の限界に気付いて脱「インフレバトル」を図っていたとも見えるんですよね。
なので、恐らく天津飯戦でのクリリンと亀仙人の会話―――
クリリン「あいつのことだから、ものすごいかめはめ波なのかも知れませんよ」
亀仙人「いいや…あの天津飯というやつ、かめはめ波そのものが効かんのじゃ。大小に関係なくな…」
この会話って、強さの基準が「どちらが巨大なかめはめ波が撃てるのか」という<強い←→弱い>にならないように配慮した結果だったんじゃないかと思います。この天津飯戦で、天津飯が恐ろしく威力の高い気功砲を“武舞台を消滅させるために撃った”ということから分かるように、力と力の戦いではなく、技と技の戦いになるように工夫されていたんだと思うのです。
タンバリン戦はかめはめ波での決着になりましたが、ピッコロ大魔王戦の決着は「パンチ」ですし、マジュニア戦は「体当たり」、ベジータ戦に至っては「大猿悟飯に潰される」ですからね。必殺技の応酬で決着が付くことはほとんどなかったんですよ。
むしろかめはめ波のような光線技こそが前座で、最後に勝負を分けたのはギリギリの状態における肉弾戦とアイディアだったというか。そういう意味では、『ウルトラマン』的戦いへのアンチテーゼな意味も込められていたんじゃないかと思いました。
フリーザ戦だけは特殊で、「アレだけの悪行で宇宙を恐怖に陥れいていた総大将がみじめな最期を遂げる」ように、最後の切り札が気円斬→自らそれに当たって真っ二つ→命乞い→「騙されたな!」と攻撃をしてくるも反撃で消滅→かと思いきやサイボーグ化して復活→名前も明らかになっていない新キャラに瞬殺される、と逆インフレを意図されていたようなんですが……
皮肉にもそれが人造人間編のインフレ化を招くことになって、最終的にセルと悟飯の巨大かめはめ波の撃ち合いで決着がつくという。悟空と天津飯の戦いの頃には「どちらが凄いかめはめ波を撃てるのか」という戦いにはしないように細心の注意が払われていたのに、止まらないインフレ化によってセル戦はそういう決着にならざるを得なかった―――と。(それでも、最後に勝負を分けたのは“父と子の絆”ではあったのですが)
そう考えると、天津飯にまつわるこのネタって「『ドラゴンボール』という作品の変化」を端的に表している例だったことが分かりますね。もちろん前半と後半どっちの『ドラゴンボール』が優れているかという話ではなくて。
「かめはめ波を決め技にしない」ドラゴンボールという作品が、「かめはめ波の撃ち合いで決着が付く」ようになったというのが面白いなぁという話です。
ちなみに、『ドラゴンボール』とは対照的に『幽遊白書』は「必殺技が決め技」になることが多いですね。頭突きで勝負が決まった酎戦とか、ギャグで落とされた吏将戦とかもありますけど(あ、そういや乱童戦は『ドラゴンボール』のベジータ戦っぽい)、「残された技でどう戦うのか」に配分が寄っている気がしますね。
この2作品の相違点というのも、考えていくと面白いのかも。
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