
<画像はNintendo Switch用ソフト『あつまれ どうぶつの森』より引用>
※ この記事は2020年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
『どうぶつの森』シリーズは2001年にNINTENDO64用ソフトとして1作目が発売されて、以後ゲームキューブ、ニンテンドーDS、Wii、ニンテンドー3DSと展開されてきました。正統続編に入れるかは微妙ですが、スマホ版も出ていましたね。
私はこの『どうぶつの森』シリーズを「自由度の高いゲーム」「自分なりのプレイスタイルで遊べるゲーム」と評してきました。しかし、3DS版が発売された半年後くらいに、このブログのコメント欄でこんなカンジのことが書き込まれたんですね。
「私はこのシリーズは今作(3DS版)が初プレイですが、このゲームは“自由度の低いゲーム”だと思いました。どの家具が手に入るかは運頼みだし、それが置けるのも1軒の家の中だけだし。」
このコメントを書き込んでくださった人は「それでも楽しんでいるんですけど(笑)」と締めくくったのですが、私の中でこのコメントはずーーーーっと忘れられませんでした。「言われてみればそうだ」と思いつつも、どこかしっくり来ていない、何か噛み合っていないカンジがずっとしていたのです。
その理由が分からず、悶々として数年……
2017年に、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』をプレイして「あ、そういうことか」とようやく分かったのです。
オープンワールドのようなゲームになった『ゼルダ』最新作は、当時「何でもできる!」「圧倒的な自由度」と言われていました。私、それがすごくしっくり来なかったんですよ。「何でもできる」か、このゲーム? いや、むしろこのゲームの自由度って「チュートリアル以降はクリア必須のイベントが一切ない」ことじゃないのかって思って、そこでようやく気付いたのです。
「ゲームの自由度」って言葉、人によって意味が全然ちがっているぞ―――と。
ざっくり言うと、「何でもできる自由度」と「何も強制されない自由度」に分かれていて。この2つは似て非なるものというのが今日の記事です。
◇ 「何でもできる自由度」とはどういうことか
若い世代の人がもしこのブログを読んでいたならピンと来ない話でしょうが、スーファミ~PS・PS2時代くらいの日本のゲーム好きにとって「自由度」という言葉は“呪い”だったと思うんです。ファミコンの『ドラゴンクエスト』のころは自分で考えてフィールドを冒険する「自由度」があったが、スーファミ以降のRPGは決められたルートとストーリーを追うだけの「一本道」ゲーになってしまった―――的なヤツです。
んで、その流れで海外のオープンワールドゲーが日本にやってきて、「日本の一本道ゲーとはちがう!」「何でもできる自由度がある!」「これが最先端のゲームだ!」ともてはやされていった結果、右へならえで日本のゲームも次々とオープンワールドになっていったじゃないですか。
ただ、「何でもできる」は言い過ぎじゃないかと思うのです。
「何でもできる」というからには性犯罪とかも好き放題できるんですよね?と以前ブログに書いたら、「そんなワケねーだろ!ヴァーカ!」「性犯罪者予備軍め、さっさと死ね!」と非難轟轟・罵倒の言葉を浴びせられまくったこともありました。「何でもできる自由度」を信奉するのに、俺には言論の自由すら与えてくれない人々め!
要は、「何でもできる自由度」というのは「与えられた選択肢の中から好きなものを選べる」「その選択肢が多い」くらいの意味なんです。
『ブレス オブ ザ ワイルド』以前、「すべてのゲームはオープンワールドに集約される」「今時オープンワールド以外のゲームを遊んでいるヤツは老害」と言っている人がコメント欄に現れたことがありました。その人が、私のことと私の好きなゲームを罵倒しまくってくれたので、「じゃあオススメのオープンワールドゲーを教えてください」と聞いてそのゲームを遊んでみたところ……メインストーリーは一本道だけど、横道に面白くもないミニゲームややり込み要素が大量にあるだけのゲームで、「これのどこが“自由度が高い”んだ?」と呆れたのですが。
でも、今なら分かります。
メインストーリーを進めてもイイし、それを放置して大量のサブクエストを遊んでもイイ―――その選択肢の多さを、「自由度が高い」とみなす考え方があるんですね。
そのゲーム自体はクソつまんなかったんで「金返せ」という記憶しかないんですが、そのおかげで(3DS版までの)『どうぶつの森』を「自由度が低いゲーム」と評された意味が分かりました(※1)
『どうぶつの森』ってむっちゃ選択肢の少ないゲームですもんね。日課となっている木の実の収穫と岩叩きと化石掘りが終わると、毎日日替わりで売っている数種類の家具と服を買って、「あー、○○が欲しいんだけど出ないなー」と言って、残りの時間は魚を釣るか、虫を取るか……マイデザインを使って村を舗装したりし始めると選択肢は増えますが、3DS版まででそれをやっている人は少数だったでしょうし。確かに「自由度の高いゲームって言われてたから始めたけど、やれること少ねえ!」って思われても仕方ないかもです。
(※1:この流れだと誤解されそうなので言っておきますと……『どうぶつの森』を「自由度が低い」と言った人と、「オープンワールドゲー以外のゲームを遊んでいる人は老害」と言ってきた人と、私を「性犯罪者予備軍」と罵ってきた人は全員別の人ね)
.jpg)
<画像はニンテンドー3DS用ソフト『とびだせ どうぶつの森』より引用>
じゃあ、何故私は(私以外の人も)『どうぶつの森』を「自由度の高いゲーム」と評してきたかというと……このゲームには「やらなければならないことがほとんどなかった」からなんです。その、「自由度の高いゲーム」にはもう一つの定義があるのだろうという話が次の項です。
◇ 「何も強制されない自由度」とはどういうことか
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』というゲームは、「オープンワールドのゲームの中でどういう立ち位置なのか」で語るよりも、「ゼルダシリーズの中でどういう立ち位置なのか」で語った方が分かりやすいゲームだと私は思っています。
ゼルダシリーズはいくつかのダンジョンがあって、それらをすべてクリアすると最後のボスが待ち構える最後のダンジョンに入れるようになる――――「いくつかのダンジョン」の攻略順が一本道だったり自由だったりは作品によって様々ですが、最後のダンジョンまでの道のりは初代から『神トラ2』まで通して大体こんなカンジです。
しかし、「すべてのダンジョンをクリアしないと最後のダンジョンに入れない」という仕様のため、一箇所でも解けない謎・倒せない敵がいると先に進めなくなってしまうのがゼルダシリーズの宿命だったんですね。だから、ゲーム好きな人達の間では評価が高くても、(特に日本では)ライト層にはあまり売れないみたいに言われていたんですが……

<画像はNintendo Switch版『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』より引用>
なので、『ブレス オブ ザ ワイルド』は、主要アイテムが手に入る最序盤のチュートリアルの祠を除けばクリア必須の場面はなく、チュートリアルが終わったら即ラスボス戦に向かうこともできるようにしたのです。もちろんアイテムも揃っていなければリンクも強化されていないのでクソ難しくなっちゃいますけどね。
広大なフィールドにはダンジョンももちろんあるし、イベントも、ストーリーも、サブクエストもあるのだけど、それらを全部「やってもイイし、やらなくてもイイ」としたのが『ブレス オブ ザ ワイルド』なのです。私は結局全部のダンジョンをクリアしてからラスボス戦に向かいましたが、祠は全然見つけられなかったし、見つけたものの中でもクリアできなかったものもたくさんあります。それでもラスボスと戦えるようになっているのです。
(関連記事:『ブレス オブ ザ ワイルド』は、どの「ゼルダのアタリマエ」を見直したのか)
やってもイイし、やらなくてもイイ―――これが私の思う「ゲームの自由度」なので。
長年ずっと「初代の『ドラゴンクエスト』には自由度があった」にしっくりこなかった理由も分かりました。あのゲーム、確かにラダトームを出た直後に「北に行っても東に行っても南に行ってもイイ」という選択肢はたくさんあるのですが、逆に言うと「最終的には北にも東にも南にも行かなくてはならない」のです。全部やらなくちゃいけないんですね(まぁ、それでもあの中ボスは倒さなくてもイイとかはありますが)。
だから私、初代の『ドラゴンクエスト』とか、あと初代の『ゼルダの伝説』とか、ちっとも自由度の高いゲームに思えないんです。「結局全部やらなくちゃダメじゃん」と。でも、それは「自由度」の捉え方が人によってちがうってだけなんですね(※2)。
(※2:もちろん「自由度が高くないゲーム」=「ダメなゲーム」ではないので、初代の『ドラクエ』も『ゼルダ』も名作だと思いますよ。)
「やってもイイし、やらなくてもイイ自由度」で言えば、私が何度かブログに書いて、誰にも同意されないどころか「その程度を自由度が高いとか言っているからオマエはレベルが低いんだよ、ヴァーカ」と罵倒されたりもしたのですが……私、『スーパーマリオブラザーズ』シリーズってすごい自由度の高いゲームだと思うんですよ。
例えば、初代の1-1。
通常ルートをクリアするのが難しい人も、地下のルートを進めば簡単にクリア出来るようになっています。一つの面をクリアするのに複数のルートがあって、苦手な場所も別ルートを通ることで「やってもイイし、やらなくてもイイ」と出来るのです。
それのもっと大がかりなヤツになると「ワープ土管でワールドごとすっ飛ばす」とか、『3』以降の「コースを選ぶ段階で複数のルートを選べる」とかになっていくという。『ワールド』なんかは序盤でいきなり最終面に行けちゃいますもんね。「やってもイイし、やらなくてもイイ究極の形」だと私は思います。

<画像は『スーパーマリオワールド』(Wii Uバーチャルコンソール版)より引用>
しかし、多分「選択肢が多い=自由度が高い」と思う人からすると「地上ルートと地下ルートの2つしか選べなくて何が自由度だ!」となるのでしょうし。そういう人からすると、ステージを攻略する順番を最初から6つ(『2』以降は8つ)から選べる『ロックマン』とかの方が自由度の高いゲームになるのかなと思います。
「やってもイイし、やらなくてもイイ」を自由度と捉える私にとっては、結局全部のステージをクリアしなくちゃいけない『ロックマン』はあまり「自由度が高いゲーム」とは思えませんが―――――
で、ようやく『どうぶつの森』の話です。
『どうぶつの森』シリーズは、この「やってもイイし、やらなくてもイイ」だけで出来たゲームなんです。むしろ「やらなくちゃいけないこと」がほとんどないのです。
シリーズの慣例として、一応「たぬきちに背負わされた借金を返していく」という目的があるのですが……どうやってお金を稼いで借金を返すかは人それぞれです。ひたすら魚を釣る人もいれば、カブで一攫千金を狙う人、レアな花を育てる人……いろんな手段があって、んで、重要なのは「自分が取ったことのない手段」はまったく知らなくても別にイイんですね。
シリーズを熱心に遊んできた人の中でも「カブ全然買ったことなかった(Twitterでみんなが話題にしているから今回初めて買った)」という人も見かけましたし、私は花の交配システムは今までほとんど手をつけてきませんでした。「やってもイイし、やらなくてもイイ」ことだから、同じゲームを遊んでいても全く手を付けない要素が結構あるんですね。
さっき「借金を返すためにお金を稼ぐ手段は様々」と書きましたが、極端な話「借金は返さなくてもイイや」という人もいました。ゲームキューブ版の頃は「家の中にファミコン家具を並べてずっとファミコンしている人」とか、Wii版や3DS版のころは「マイデザインでいろんな服を自作する人」とか、「マイデザインで道路を作って村を舗装する人」とか、一つの要素だけをずっと遊ぶ人もたくさんいたんですね。
『スーパーマリオワールド』や『ブレス オブ ザ ワイルド』も「ラスボスを倒さないとエンディングにならない」けれど、『どうぶつの森』にはそのラスボスすらいません。チュートリアル以降は完全に自由なのです。
「取れる選択肢はさほど多くない」かも知れないけれど、「やらなくちゃいけないこと」がほとんどない自由―――それが『どうぶつの森』の自由度なんです。噛み合わなかった「自由度」についての話を、7年後に回答できて良かったです。そのコメントを書き込んでくださった人が、今もこのブログを読んでいるとは思えないがな!
さて、しかしですね……
『どうぶつの森』シリーズ最新作『あつまれ どうぶつの森』は、今の話とかなり逆行していて「取れる選択肢が多い」けど「やらなくちゃいけないことが増える」方向に進んだと思うんです。
「取れる選択肢が多くなった」のは、言うまでもなく“島クリ”のシステムです。
前作までは一部のガチ勢しかやっていなかったであろう「道路の舗装」を誰でも簡単にできるようにしただけでなく、川や崖などの地形を自由にイジれて、更に住宅や施設も場所を動かせるようになりました。また家具が外に置けるようになったので、島全体を自分の好きなようにコーディネート出来るようになったんですね。
ただし、DIYシステムによって「やらなくちゃいけないことが増えた」印象もあります。
例えば「釣りだけがしたい人」であっても、釣り竿を自分で作らなくちゃいけませんし、頻繁に釣り竿は壊れます。釣り竿を作るためには木をゆすって枝を集めなくちゃいけないし、丈夫な釣り竿を作る鉄鉱石は岩を叩かないと出てきません。岩を叩くためのスコップを作るには木材が必要で、木材を手に入れるためには斧が必要で、斧を作るためには―――――てなカンジに、「一つの要素だけを遊びたい人」に「他の要素もしなくてはならない」と押し付けているところがあるんですね(一応、一番ショボイ道具はお金で買うことも出来るけど)。
私が今回顕著だと思ったのは「借金返済」と「収納システム」です。
DIYシステムによっていろんな素材をキープしておかなければならない割に、収納できるアイテムは少なく、その代わり借金を返済して家を大きくすると収納数がどんどん増えていく仕様になっています。その結果、みんな「早く収納数を増やしたくて」お金をたくさん稼いで借金を返済していくプレイに走る傾向があって、歴代『どうぶつの森』シリーズの中でもこんなに熱心に借金を返済されたものもないんじゃないかと思うほどでした。たぬきち、やったな!?

<画像はNintendo Switch用ソフト『あつまれ どうぶつの森』より引用>
なので、このゲーム―――
一つの視点では「シリーズで最も自由度の高いゲーム」に思えるのに(選択肢が多い点では)、もう一つの視点では「シリーズで最も自由度の低いゲーム」に思える(やらなくちゃいけないことが多い点では)という、不思議な立ち位置の作品になったなぁと思っています。
「じゃあ、つまんないの?」と聞かれると「ムチャクチャ楽しんでいます」と答えますが、シリーズの方向性がガラリと変わったということは前作も前々作もこのシリーズについて語ってきたブログとしては無視できない話だなぁと思ったのと……あと、私の推しキャラ:まいごちゃんが出てこないのが不満です!
この辺の旧キャラは、アップデートで追加されて登場したりするんですかね。
前作が出た2012年から今作が出た2020年の8年間の間で、任天堂が変わった一番の大きなポイントは「継続的なアップデートで遊びを追加することによって1本のゲームを長く遊んでもらう」ことで、『Splatoon』なんかはまさにその象徴的タイトルだったと思うのですが。
今作はインターネットに繋げないと季節イベントが遊べないようになっているなど、ゲーム機がインターネットにつながっていることが前提の仕様なので……アプデでいろんなものを追加していって1年間遊んでもらう狙いがあるように思えるんですね。ずっと出ていた旧作キャラも、ぺりこ達とか、旧村長とか、美容院の人とか、カフェの人とか、かっぺいとか、たくさんいますし。
ということで、今のタイミングではレビューは書けない!
その代わりにこのコラムをここに残しておきます。
どうぶつの森シリーズ大好きだった自分があつ森は全てが面倒に感じて全くハマれなかった理由としてすごくしっくりくる考察だと思いました。あつ森、何をするにもDIYの要素がつきまとっていてやらなきゃいけない事が多いのが面倒臭さを感じた理由だったんですね……
返信削除すごく分かります……島クリエイトみたいに「本作にしかない魅力」があるのは確かだし、ヒットするのも分かるのだけど、3DS版以前と変わってしまった部分も多い作品でしたよね。
削除Switch2でも出るであろう新作が、この『あつ森』路線を継続するのか、3DS版以前のゆるい路線に戻ってくれるのか、気になるところです。