「ピッコロ大魔王」編の衝撃は半端なかった


<画像は漫画『ドラゴンボール』13巻其之百四十六より引用>

※ この記事は2009年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です


 この記事は『ドラゴンボール』全編のネタバレを含みますー。


 その記事は既に消えてしまったみたいですが、『ドラゴンボール』における「ラディッツ」というキャラについての役割を語る記事がありました。

 主人公(悟空)の兄というポジションにも関わらずコミックス1冊分であっさり退場、その後に「あんな役に立たんヤツ」呼ばわりされるなんてあんまりだという意見もあれば。
 話が宇宙規模に広がり、圧倒的な強さや戦闘力の概念などを読者に見せ付けた当時の衝撃は凄かったという意見もあり―――確かに、彼の登場からアニメが『ドラゴンボールZ』(今では『ドラゴンボール改』か)にリニューアルされたことに代表されるように、作品の大きな転換点だったのかなぁと思います。



 個人的には、悟空が子作りをしていたことの方が衝撃だったんですけど。
 それはさておき、この中のコメントの一つに「ピッコロ大魔王編の絶望感に比べると、ラディッツ戦は組み手っぽい感覚だった」というものがあり。言われてみれば、自分もそう感じていたのかなぁと思い出しました。

 「ピッコロ大魔王」編の衝撃が半端なさ過ぎて、その後の天下一武道会も、このラディッツ戦も、ナッパに次々と味方が殺されていく様も、あんまりドキドキ出来なかった記憶があるのです。絶望にも免疫が出来ると言うか。



 今振り返ってみても、『ドラゴンボール』における「ピッコロ大魔王」編は特別な要素を抱えていたと思うのです。それまで『ドラゴンボール』という作品が守ってきたものを、ことごとく破壊していったと言うべきか。




1.初めて、味方キャラが殺された衝撃
 後期『ドラゴンボール』から考えれば意外なんですけど、初期『ドラゴンボール』は“人が死なない漫画”だったんですよね。飛行機が墜落してもピラフ一味は生きているし、月に連れてかれてもウサギ団は生きているし(亀仙人が月を破壊した後は知らん)。ギャグ漫画だった『Dr.スランプ』からの流れですから、それがフツーだったんですよね。

 最初の転機としてはレッドリボン軍編があって、恐らく登場人物が“死ぬ”のはあの辺りからでしょう。それでも基本的に死ぬのは“悪者”に限られていて、唯一の例外がウパの父ちゃん(ボラ)なんですけど……悟空はわざわざボラをドラゴンボールで生き返らせますし、そもそもボラは登場の2週後に殺されてしまう“死ぬために出てきたキャラ”とも言えるワケで……


 それと比較すると。
 初期から登場していて、悟空の良き仲間でありライバルでもあったクリリンが殺されてしまった衝撃というのは計り知れないものがありました。しかも、戦闘シーンすら描かれず、悲鳴だけで殺されてしまい。しかもしかも、ピッコロどころか一部下に過ぎないタンバリンに殺されるというあの絶望感は半端なかったです。

 更に言うと、その後に亀仙人や餃子も殺され、天津飯は1回限りの魔封波に全てを賭け(ようとして)、ヤムチャは骨折しているという、徐々に味方キャラがいなくなっていくあの感覚も恐ろしいものでした。



2.亀仙人の死んだ後の世界
 悟空にとって亀仙人が師匠だというのは言うまでもないのですが……

 初期『ドラゴンボール』にとって、亀仙人の存在は「悟空がどこまで強くなったか」の指針になっていたんだと思います。
 最初の天下一武道会では悟空が敗れたり、その後も亀仙人自らが「ワシを超えた」とか「ワシにも動きが見えんかった」と悟空を評したり。亀仙人が登場しない間でも、「かつて武天老師(=亀仙人)が修行に来た」とカリン様が言ったり。既に亀仙人を超えていたと思える天津飯との決勝戦も、亀仙人が解説役に回ったり。


 「ピッコロ大魔王」編でも、亀仙人は天津飯・餃子を指揮してドラゴンボール強奪しようとするなど“精神的支柱”になっていました……が、結果的にピッコロ大魔王との戦いに敗れ、死んでしまいます。

 当時まだ“気を感じる”ことが出来なかった悟空なんですけど、亀仙人の死だけは何かを感じていたみたいなんですよね。
 その後、超神水を飲んだ悟空は、亀仙人のいない世界で、ピッコロ大魔王を見事に倒すのですが―――この瞬間こそ、悟空が初めて亀仙人という偉大な師匠の下を卒業した時だったのかなと思いました。



3.神龍の破壊、ドラゴンボールの悪用
 よくよく考えると、ドラゴンボールが敵側に使われたのってこの1回だけなのか……

 初期はドラゴンボールを集めること自体が大変だったのですけど、悟空達が強くなりすぎたためか、マンネリ防止のためなのか……この頃から、ドラゴンボールを集めること自体には苦労せず、それをどう使うのかということに焦点が当たるようになりました。
 逆に言うと、1回ウパの父ちゃん(ボラ)を生き返らせたのだから、この後に誰が殺されてもドラゴンボールで生き返らせてもらえる―――と安心してしまったところがあったんですよね。ブルマも悟空も、天津飯に「死んでしまってもドラゴンボールで生き返らせるから!」と言ってましたもの。


 「死」が軽んじられてしまうというか、緊張感も絶望感もなくなってしまうところではあったのですが…
 それを防ぐために、ピッコロ大魔王自らが神龍を殺してしまうというのは、流石のセンスですよね。もちろんピッコロ大魔王の強さを見せ付けることにもなりますし、子ども心に「ドラゴンボールが使えなくなったこの後の世界はどうなってしまうんだろう」と震え上がったのを覚えています。


 この後、神様がドラゴンボールを復活させて、「神様orピッコロが死ぬとドラゴンボールが消滅する」「1度適えた願いは適えられない」「神の力は超えられない(神様以上の敵は倒してくれない)」と次々と設定が後付されてバランスを保っていき、ドラゴンボールは手軽に人の命を生き返らせるアイテムみたいな価値になってしまうのですが……

 ドラゴンボールの価値が絶対的だった「ピッコロ大魔王」編の時期に、それを利用してここまで絶望を感じさせたあの衝撃は凄まじいものがありました。ドラゴンボールはなくなってしまったけど、人の力で世界を救うというエンディングに物凄く熱くなったのを昨日のことのように思い出します。



 しかしまぁ、振り返ればこれって「ピッコロ大魔王」編に限った話ではなく。
 『ドラゴンボール』という作品は、常に作品内の前例を覆すことを考えていた作品だったというか。飽きさせない工夫をこれでもかと繰り返していた作品だったのかなぁと思います。


 サイヤ人編では、1人対多数のバトルを。
 ナメック星編では、フリーザという強大な敵から逃げ回る三竦みの戦いを。
 人造人間編では、パワーアップし続ける敵を。
 魔人ブウ編では、味方ですら合体パワーアップを(ナメック星人は合体してたな…)。


 外側だけ見れば「いつも闘っている」バトル漫画というジャンルに一括りにされるんでしょうが、それぞれのシリーズでそれぞれ新しいことを取り入れてマンネリ化しないように心がけていたように思えるんですよね。
 各シリーズで細かい設定が変わっているとかも、その時々で読者を熱中させるために様々なことにチャレンジした結果でしょうし。「ドラゴンボールは○○編までだよね」みたいなことが議論になるのも、『ドラゴンボール』という作品が常に変わり続けたことの証なのかもと思ってみたり。


(関連記事:天津飯にはどうして「かめはめ波が効かない」のか?

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