※ この記事は2007年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です
百合なのかレズなのかとか、どこまでを許容範囲とするのかとかの個人差はあるけれど……女のコ同士が仲良くしているのを見て和まない男なんていないもの。
というワケで、今週の貧乳カテゴリー話は「百合」。もはや、おっぱい関係ない。
「百合」と言っても、「男性にとっての百合」と「女性にとっての百合」では微妙にニュアンスが違うと思うので……僕が語るのは「男性にとっての百合」です。残念ながら、僕は男なんで。
「女性にとっての百合」も男の僕にとってはミステリアスで魅力的なものなんですけど、如何せん男からでは分からないことの方が多いので語りようがないのです。
“女のコもイケる”女性が百合萌えなのは凄くイメージしやすいんですが、世の中には“女のコ相手はありえない”けど百合萌えの女性もいますからね……恐らくは“萌え”の出処が違うのだろうけど、男にとってはよく分からないというか。
ということで、今日は「男性にとっての百合」話です―――
○ 少年漫画の主人公は少年でなければならない
いきなり下品な話で申し訳ないのですが……
僕が毎週聴いているアンタッチャッブルのラジオにて、以前に山崎さんが「AV男優が格好良いと萎える」と言っていたことがありました。 「結局、このコとエッチなことが出来るのは(ブサイクな自分ではなく)格好良いAV男優なんだなと考えちゃうと、虚しくなってしまって…」とのこと。言わんとすることは分からなくもないです。
そう言えば……漫画版『舞-乙HiME』を少年チャンピオンで連載する際に、脚本の吉野弘幸氏が「少年漫画には一応“物語は読者の半径三百M以内から始めろ”という黄金率があるんですが…」と苦労したことをコミックスで語っていましたね。
原作(?)となるアニメ版は“女のコ達が夢を追いかける話”だったので、少年漫画の読者とはズレがあった―――と。まぁ、チャンピオン読んでいる人の少年率ってどのくらいなんだろうとは思うのですが、女のコが主人公じゃ読者が感情移入できないよねと、漫画版の『舞-乙HiME』は(アニメ版では女のコの)マシロ姫を「女装している少年」にしてしまうことで解決していました。何たる力技。
『舞-乙HiME』の例は極端というか、力量がある人達だからこそ可能だった力技だったと思うんですが……主人公と受け手(読者・視聴者・プレイヤー)を近くして、感情移入しやすい環境を作るというのは基本中の基本です。
『マジンガーZ』の主人公がマジンガーではなく兜甲児なのは、視聴者にとってはロボットよりも男子高校生の方が感情移入しやすいからですし(しかも、メイン視聴者である子ども達と年齢が近い弟がいる)。『ガンダム』以降、情けないタイプの主人公が増えたのは「兜甲児よりもアムロ・レイの方が自分に近い」と思った人が多かったからです。
普段は「自分に近くて」「情けない」主人公が「ここぞというところで活躍する」姿に燃えるのは、主人公に感情移入出来るからなんですよね。僕らは出来杉くんよりものび太に近いからこそ、劇場版ののび太が正義と友情のために頑張る姿に感動できるのです。
あれ?でも、この論理で考えると……男って百合モノに感情移入できなくなっちゃうんですよね。 女装少年になって女子校に潜入する可能性は0ではないけど(限りなく0には近いけど)、ほとんどの男性は女のコだった経験がありません。女だった経験がない男が、美少女同士の百合描写に感情移入なんかできるの?自分から最も遠い存在に感情移入なんかできるの?
でも、百合アニメとか百合漫画というのは既に一ジャンルですし、そうでないアニメや漫画にも百合キャラが出てきて人気だったりします。女性にしか人気がないワケではなくて、むしろ男性の方が熱心に百合モノを好きなケースもあるんですよね。
という疑問が、今日の記事を書こうと思い立ったきっかけです。
○ 現実とフィクションの間で
『ドラゴンクエスト』シリーズの主人公が無個性で喋らないキャラなのは、プレイヤーが「主人公=自分」と感情移入できるようにと言われています(実際には、全く喋らないというワケでもないんですけどね)。
言われてみれば……対照的に映画的な演出をする『ファイナルファンタジー』シリーズは、主人公のキャラの好き嫌いによって各人の評価が分かれているような印象はありますね。
『ドラクエ』と『FF』のどちらが優れているかという話ではなく、『ドラクエ』がより広い対象を設定しているのに対して、『FF』はより深いファンを作ろうとしている気がします。『FF7』のスピンオフ作品なんかは、分かりやすい例です。
しかし、無個性で自己主張しない主人公の方が感情移入しやすいと言っても、感情移入しやすいからこそ上手くいかない要素も出てきます。
美少女アニメや美少女ゲームで、「無個性で自己主張しない」「自分に近い」主人公がモテモテになるのがどうにも納得いかないのです。この主人公、俺と一緒でダメダメな筈なのにどうしてモテるんだと。
現実の僕らは、大抵の場合はそうそうモテるもんでもありません。席替えの後に、隣の席になった女子が「黒板が見えないので席を変えて下さい」と申告するなんて日常的だったじゃないですか(断言)。感情移入しやすいために無個性なキャラにしたはずが、逆に感情移入できねえよと。
でも、逆に主人公が「あぁ、コイツならモテるのも納得だぜ!」みたいな二枚目なのも腹が立つんですよね(笑)。AV男優が格好良いと萎えてしまうのと一緒です。
もちろん、現実とフィクションのギャップに折り合いを付けて上手く楽しめる人が沢山いるのは分かりますよ。でも、僕にはその才能がないので、イマイチこの手の「美少女がいっぱい登場!」「主人公がモテモテ!」系の作品は苦手なのです……
主人公が全くモテない美少女作品というのも面白いと思うんですが、そうなるとどうしても「ムリヤリ」系にシフトしがちなのと、「フィクションの中でくらいはモテたい!」という願望を満たしきれないジレンマが出てきます。
なので、逆転の発想。
男主人公なんていなければ良いじゃないか。―――これこそが、百合ブームの根源なんじゃないかと思うのです。
今では百合アニメの代表のように語られる『ストロベリー・パニック』は、元々は「メインヒロインの兄になって、女子校に入学した妹に助言を与えて百合カップル成立に導く」というよく分からない読者参加企画だったそうです(参考:Wikipedia)
主人公は読者であって、ヒロインの兄であって、百合カップルの二人ではなくて―――読者は女のコ達がイチャイチャしているのを見守るだけの、監視カメラのような存在だったんですよね。
んでまぁ、この企画は上手くいかなくて「兄」という設定も消滅し、僕が観ていたアニメ版もシンプルに女のコが女のコとイチャイチャする作品となっていたんですが……この変遷は、百合作品を考える上で非常に興味深いです。
女のコ同士の恋愛では、男性読者が感情移入できないと編集部は判断
→ 作中には登場しない「ヒロインの兄」を設定して、妹を見守る立場として感情移入させる
→ 妹という設定に縛られ失敗
→ 男性不在の百合作品として展開し直す
『ストパニ』はぶっちゃけ『マリア様がみてる』の模倣だとは思うんですが、女性向けの媒体で展開していた『マリみて』を、男性向けの媒体で成功させるための苦労が垣間見え―――最終的には、女性向け作品と同じようなところに着地したというのは面白いですね。
僕は『マリみて』観たことないんで偉そうに語る資格もないのですが、『ストパニ』ファンに言わせると「『マリみて』とはまた違う魅力がある」とのことです。
そもそもが、僕らは自分に近い人間にしか感情移入できないワケじゃありません。
戦争体験がなくても『火垂るの墓』に涙できるし、野球をしたことがなくても高校野球に熱くなれるのです。近い環境の人間でなくても、自分との共通点を見つけて感情移入できるんですよ。それだけの想像力は持っているのです。
もちろん、そのためには感情移入が出来るだけの下地を描かなければならないので、即物的な少年漫画やゴールデンのアニメでは「受け手と近い存在を主人公に」がセオリーになるんですけどね。
良くも悪くも、じっくり作品を判断してもらえるヲタク向け作品だからこそ、男性が百合モノに感情移入が出来たというのは大きな要因でしょう。
この発想からすると―――女性は男性から最も遠い存在であるからこそ、男性が百合に感情移入が出来るとも言えるワケで。 その意味ならば、男性から見た百合モノって触手とかに近いのかもしれませんね。「美と美」か「美と醜」か、最終的に形が出る方向は真反対ですけどね。
加えて、キャラ造形をする立場からすると百合キャラって便利なんですよね。
ツンデレだったらツリ目でなければならないとか、クールなコは貧乳でなければならないとか、キャラをデザインする際にそういった制約がなく。それでいて、百合キャラというだけでキャラが立つワケです。
これは別に百合に限らず、「誰かを想っている」「誰かに想われている」というのはシナリオを作りやすい要素にもなります。
全員が全員、“女のコが好き”というのは流石に勇気が必要ですが……
登場人物の中に一人くらい入れておけば面白いかもなぁとは思います。なので、現実の“百合っこ比率”よりもフィクションの中での“百合っこ比率”が高くなるのは当然とも言えるんですよね。つーか、現実に百合っこなんて遭遇したことないけど。出会ってみたいもんだ。
とまぁ……こんな風に「男性から見た百合」を語ってきて、ここ数年のブームは男女の恋愛を描き続けてきた美少女アニメや美少女ゲームのカウンターとして出てきたというか、まぁそんな感じだと思うんですが……
同性愛を描いた作品というのは、それこそ大昔からあるワケです。
ただ、個人的にはそうした“同性愛を描いた作品”と“昨今の百合ブーム”は出処が違うんじゃないかと思うのです。
男性が都合の良いところばかりを見たがっているからなのか、男性向けの百合作品って「同性愛がマイノリティであること」も「(少なくとも現在の日本社会では)同性愛には将来がないこと」も描かれないケースが多いんですよ。
前述の『ストパニ』はそもそも作中に男自体が出てこなかったし。『シムーン』は女以外は生まれてこない世界の話だったし。『舞-乙HiME』なんかソコを逆手にとって、「オトメは男性と交われない」という設定まで用意していたし。
でも、そうした作品を観ている男性陣からも、そうした違和感を指摘する人は少なくないです。「女のコ同士がイチャイチャしてる」だけなのか、「ガチで同性愛」なのかは大きな差ですが……恋愛感情として百合を描くのならば、負の側面も描くべきだろうということですね。
描くべきかは非常に難しい話ですが、百合が単なる一過性のブームではなく一ジャンルとして今後も生き続けるのならば……そうした作品が生まれて、議論が巻き起こる可能性も高いでしょうね。
ということで、今日は「男性にとっての百合」話です―――
○ 少年漫画の主人公は少年でなければならない
いきなり下品な話で申し訳ないのですが……
僕が毎週聴いているアンタッチャッブルのラジオにて、以前に山崎さんが「AV男優が格好良いと萎える」と言っていたことがありました。 「結局、このコとエッチなことが出来るのは(ブサイクな自分ではなく)格好良いAV男優なんだなと考えちゃうと、虚しくなってしまって…」とのこと。言わんとすることは分からなくもないです。
そう言えば……漫画版『舞-乙HiME』を少年チャンピオンで連載する際に、脚本の吉野弘幸氏が「少年漫画には一応“物語は読者の半径三百M以内から始めろ”という黄金率があるんですが…」と苦労したことをコミックスで語っていましたね。
原作(?)となるアニメ版は“女のコ達が夢を追いかける話”だったので、少年漫画の読者とはズレがあった―――と。まぁ、チャンピオン読んでいる人の少年率ってどのくらいなんだろうとは思うのですが、女のコが主人公じゃ読者が感情移入できないよねと、漫画版の『舞-乙HiME』は(アニメ版では女のコの)マシロ姫を「女装している少年」にしてしまうことで解決していました。何たる力技。
『舞-乙HiME』の例は極端というか、力量がある人達だからこそ可能だった力技だったと思うんですが……主人公と受け手(読者・視聴者・プレイヤー)を近くして、感情移入しやすい環境を作るというのは基本中の基本です。
『マジンガーZ』の主人公がマジンガーではなく兜甲児なのは、視聴者にとってはロボットよりも男子高校生の方が感情移入しやすいからですし(しかも、メイン視聴者である子ども達と年齢が近い弟がいる)。『ガンダム』以降、情けないタイプの主人公が増えたのは「兜甲児よりもアムロ・レイの方が自分に近い」と思った人が多かったからです。
普段は「自分に近くて」「情けない」主人公が「ここぞというところで活躍する」姿に燃えるのは、主人公に感情移入出来るからなんですよね。僕らは出来杉くんよりものび太に近いからこそ、劇場版ののび太が正義と友情のために頑張る姿に感動できるのです。
あれ?でも、この論理で考えると……男って百合モノに感情移入できなくなっちゃうんですよね。 女装少年になって女子校に潜入する可能性は0ではないけど(限りなく0には近いけど)、ほとんどの男性は女のコだった経験がありません。女だった経験がない男が、美少女同士の百合描写に感情移入なんかできるの?自分から最も遠い存在に感情移入なんかできるの?
でも、百合アニメとか百合漫画というのは既に一ジャンルですし、そうでないアニメや漫画にも百合キャラが出てきて人気だったりします。女性にしか人気がないワケではなくて、むしろ男性の方が熱心に百合モノを好きなケースもあるんですよね。
という疑問が、今日の記事を書こうと思い立ったきっかけです。
○ 現実とフィクションの間で
『ドラゴンクエスト』シリーズの主人公が無個性で喋らないキャラなのは、プレイヤーが「主人公=自分」と感情移入できるようにと言われています(実際には、全く喋らないというワケでもないんですけどね)。
言われてみれば……対照的に映画的な演出をする『ファイナルファンタジー』シリーズは、主人公のキャラの好き嫌いによって各人の評価が分かれているような印象はありますね。
『ドラクエ』と『FF』のどちらが優れているかという話ではなく、『ドラクエ』がより広い対象を設定しているのに対して、『FF』はより深いファンを作ろうとしている気がします。『FF7』のスピンオフ作品なんかは、分かりやすい例です。
しかし、無個性で自己主張しない主人公の方が感情移入しやすいと言っても、感情移入しやすいからこそ上手くいかない要素も出てきます。
美少女アニメや美少女ゲームで、「無個性で自己主張しない」「自分に近い」主人公がモテモテになるのがどうにも納得いかないのです。この主人公、俺と一緒でダメダメな筈なのにどうしてモテるんだと。
現実の僕らは、大抵の場合はそうそうモテるもんでもありません。席替えの後に、隣の席になった女子が「黒板が見えないので席を変えて下さい」と申告するなんて日常的だったじゃないですか(断言)。感情移入しやすいために無個性なキャラにしたはずが、逆に感情移入できねえよと。
でも、逆に主人公が「あぁ、コイツならモテるのも納得だぜ!」みたいな二枚目なのも腹が立つんですよね(笑)。AV男優が格好良いと萎えてしまうのと一緒です。
もちろん、現実とフィクションのギャップに折り合いを付けて上手く楽しめる人が沢山いるのは分かりますよ。でも、僕にはその才能がないので、イマイチこの手の「美少女がいっぱい登場!」「主人公がモテモテ!」系の作品は苦手なのです……
主人公が全くモテない美少女作品というのも面白いと思うんですが、そうなるとどうしても「ムリヤリ」系にシフトしがちなのと、「フィクションの中でくらいはモテたい!」という願望を満たしきれないジレンマが出てきます。
なので、逆転の発想。
男主人公なんていなければ良いじゃないか。―――これこそが、百合ブームの根源なんじゃないかと思うのです。
今では百合アニメの代表のように語られる『ストロベリー・パニック』は、元々は「メインヒロインの兄になって、女子校に入学した妹に助言を与えて百合カップル成立に導く」というよく分からない読者参加企画だったそうです(参考:Wikipedia)
主人公は読者であって、ヒロインの兄であって、百合カップルの二人ではなくて―――読者は女のコ達がイチャイチャしているのを見守るだけの、監視カメラのような存在だったんですよね。
んでまぁ、この企画は上手くいかなくて「兄」という設定も消滅し、僕が観ていたアニメ版もシンプルに女のコが女のコとイチャイチャする作品となっていたんですが……この変遷は、百合作品を考える上で非常に興味深いです。
女のコ同士の恋愛では、男性読者が感情移入できないと編集部は判断
→ 作中には登場しない「ヒロインの兄」を設定して、妹を見守る立場として感情移入させる
→ 妹という設定に縛られ失敗
→ 男性不在の百合作品として展開し直す
『ストパニ』はぶっちゃけ『マリア様がみてる』の模倣だとは思うんですが、女性向けの媒体で展開していた『マリみて』を、男性向けの媒体で成功させるための苦労が垣間見え―――最終的には、女性向け作品と同じようなところに着地したというのは面白いですね。
僕は『マリみて』観たことないんで偉そうに語る資格もないのですが、『ストパニ』ファンに言わせると「『マリみて』とはまた違う魅力がある」とのことです。
そもそもが、僕らは自分に近い人間にしか感情移入できないワケじゃありません。
戦争体験がなくても『火垂るの墓』に涙できるし、野球をしたことがなくても高校野球に熱くなれるのです。近い環境の人間でなくても、自分との共通点を見つけて感情移入できるんですよ。それだけの想像力は持っているのです。
もちろん、そのためには感情移入が出来るだけの下地を描かなければならないので、即物的な少年漫画やゴールデンのアニメでは「受け手と近い存在を主人公に」がセオリーになるんですけどね。
良くも悪くも、じっくり作品を判断してもらえるヲタク向け作品だからこそ、男性が百合モノに感情移入が出来たというのは大きな要因でしょう。
この発想からすると―――女性は男性から最も遠い存在であるからこそ、男性が百合に感情移入が出来るとも言えるワケで。 その意味ならば、男性から見た百合モノって触手とかに近いのかもしれませんね。「美と美」か「美と醜」か、最終的に形が出る方向は真反対ですけどね。
加えて、キャラ造形をする立場からすると百合キャラって便利なんですよね。
ツンデレだったらツリ目でなければならないとか、クールなコは貧乳でなければならないとか、キャラをデザインする際にそういった制約がなく。それでいて、百合キャラというだけでキャラが立つワケです。
これは別に百合に限らず、「誰かを想っている」「誰かに想われている」というのはシナリオを作りやすい要素にもなります。
全員が全員、“女のコが好き”というのは流石に勇気が必要ですが……
登場人物の中に一人くらい入れておけば面白いかもなぁとは思います。なので、現実の“百合っこ比率”よりもフィクションの中での“百合っこ比率”が高くなるのは当然とも言えるんですよね。つーか、現実に百合っこなんて遭遇したことないけど。出会ってみたいもんだ。
とまぁ……こんな風に「男性から見た百合」を語ってきて、ここ数年のブームは男女の恋愛を描き続けてきた美少女アニメや美少女ゲームのカウンターとして出てきたというか、まぁそんな感じだと思うんですが……
同性愛を描いた作品というのは、それこそ大昔からあるワケです。
ただ、個人的にはそうした“同性愛を描いた作品”と“昨今の百合ブーム”は出処が違うんじゃないかと思うのです。
男性が都合の良いところばかりを見たがっているからなのか、男性向けの百合作品って「同性愛がマイノリティであること」も「(少なくとも現在の日本社会では)同性愛には将来がないこと」も描かれないケースが多いんですよ。
前述の『ストパニ』はそもそも作中に男自体が出てこなかったし。『シムーン』は女以外は生まれてこない世界の話だったし。『舞-乙HiME』なんかソコを逆手にとって、「オトメは男性と交われない」という設定まで用意していたし。
でも、そうした作品を観ている男性陣からも、そうした違和感を指摘する人は少なくないです。「女のコ同士がイチャイチャしてる」だけなのか、「ガチで同性愛」なのかは大きな差ですが……恋愛感情として百合を描くのならば、負の側面も描くべきだろうということですね。
描くべきかは非常に難しい話ですが、百合が単なる一過性のブームではなく一ジャンルとして今後も生き続けるのならば……そうした作品が生まれて、議論が巻き起こる可能性も高いでしょうね。
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