私達の認識範囲が「家族」から「学校」へ―――『水星の魔女』が見直した「アタリマエ」

※ この記事は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第5話「氷の瞳に映るのは」までのネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。

※ この記事は2022年に旧ブログに書かれたものを幾つか手直しして2025年に移行した記事です

 10月から始まった、ガンダムシリーズ最新作のアニメ『水星の魔女』がムチャクチャ面白いです。
 “シリーズ最新作”とは言いましたが、今までの作品と世界観やキャラクターはつながっていないので、これまでのガンダムシリーズを1本も観たことがない人でも楽しめますので安心して観ましょう!


 というのも、この『水星の魔女』という作品―――
 バンダイナムコフィルムワークスのプロデューサー岡本拓也さんによると、「今の若者はガンダムを観ない」「そんな若者達にガンダムを見せるためには」という認識からスタートしているみたいなんですね。
 例えば、このインタビューです。(※ 2025年追記:このページが載っていたアキバ総研は2024年9月に終了してしまったため、現在はもう読めなくなってしまったみたいです。残念)

<以下、引用>
――学園を舞台として始まるのも、そういったターゲットを意識したところがあったのでしょうか?

岡本「これまでも学校が登場するガンダムはありましたが、少年兵からスタートするとか、初手からシリアスな作品が多かったと思います。
 今回の『水星の魔女』も、ストーリーを考える上で何回か転換点があって、最初は結構重いところからスタートする内容だったんですね。でも、ちょうどその頃に、社会科見学で来た10代の子たちから話を聞くタイミングがあったんです。そうしたら「ガンダムは僕らに向けたものじゃない」「(タイトルに)ガンダムとついていたら見ません」と言われて……。」

――衝撃的な言葉ですね。

岡本「結構刺さりましたね。ガンダムは宇宙世紀シリーズはもちろんですが、宇宙世紀以外の作品にしても『機動戦士ガンダムSEED』から20年経っています。それは歴史であると同時に、ある種、壁や重みのようにもなっていて、若い世代にとって入りづらさになってしまっていると思います。これまでも若い世代が入りやすいように、クリエイターの方々がさまざまなアプローチしてきました。しかしさらに彼らの身近な環境から作品をスタートさせるのがいいんじゃないかと思い、学園を舞台にしよう、という話が出た感じです。」

</ここまで>
※ 改行や強調など、一部引用者が手を加えました


 TVアニメでのガンダムシリーズ本編は、「若者達が入りやすいようなリスタート作品」を狙って作っていたと思うのですが。2002年~の『SEED』はそれが成功したものの、2007年~『OO』、2011年~『AGE』、2015年~『鉄血のオルフェンズ』なんかはそれが成功したようには思えず……『SEED』が掬いあげた層で20年戦ってきたような印象に、どうしてもなってしまいます。


 なので、今作は「女性主人公」であり、「本格的な学園モノ」であるという、今までのガンダムとはちがうアプローチで入ってきたんですね。言ってしまえば「ガンダムのアタリマエを見直す」だし、「ガンダムの面白さの再構築」だと思うんですね。

 そして、「学園モノになったガンダム」を見た私も、改めて「ガンダムの面白さの構造」を考えさせられたんですね。



◇ 宇宙をまたぐ「戦争」と、箱庭の中の「疑似家族」

 私は、ガンダムシリーズの魅力は「群像劇」なことにあると思っています。
 多数の作品において描かれているものが「戦争」であるため、「絶対的な正義の主人公」が「悪」を倒すという構図ではなく、敵サイドの様子も描いて、「敵には敵の事情がある」と見せるんですね。それこそ初代の『ガンダム』は、「相手がザクなら人間じゃないから撃てる!」と言っていたアムロが、そのザクの中にも人間が乗っていると認識していく話ですから。

 そのため、ガンダムシリーズには「主人公サイドよりも人気のある敵キャラ」が多数登場します。シャア・アズナブル、ギレン・ザビ、ハマーン・カーン……などなどなど。分かりやすく“敵”と書きましたけど、あちら側の視点ではあちらが主人公だし、『ギレンの野望』のように敵サイドを主人公側にしたゲームも多数出ています。


 ただし、地球全体どころか、人類が宇宙に進出して暮らしている時代に、月よりも遠い場所にあるコロニーと地球との戦争を描いたりするので……スケールがバカデカいし、その「戦争」には本来トンデモない人数が関わってくるはずなんですね。
 でも、そんな人数の「群像劇」を描かれても視聴者は理解できないし、何より本来のターゲット層であるこども達にはちんぷんかんぷんでしょう。

 そこで、初代の『機動戦士ガンダム』(1979年)は、視点を「戦争に巻き込まれた人々を乗せたホワイトベース」に固定させて、ここに「疑似家族」のようなものを作るのです。
 ブライトさんがお父さん、ミライさんがお母さん、リュウさんが相談相手になってくれる叔父さんあたりで、ハヤトはイトコ、カイさんは親戚が集まるときにいつもイヤなことを言って空気を悪くするちょっとヤンキーのお兄さん―――みたいなカンジ。

 「戦争」がよく分からないこども達も、いつも怒っているブライトさんを見て「怒っているときのお父さんみたいだ」と思うし、「カイさんみたいなイヤなこというお兄さんいるよなー」と、自分の家族・親戚に置き換えて見ることが出来たんですね。


 描く「コミュニティー」を小さくして、こども達にも身近なもののように見せることで……

 「戦争」を描いているのに、『サザエさん』を観ているような感覚で観られたのが初代『機動戦士ガンダム』だったのです。


 この手法は別に『ガンダム』がゼロから生み出したものではなく、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)の影響もあるだろうし、富野監督の前々作『無敵超人ザンボット3』(1977年)から踏襲したものも多いと思います。『ザンボット3』はまさに、神(じん)ファミリーという親戚一同が宇宙からの侵略者と戦う話ですからね。


 しかし、作る側も観る側も「いつまでもサザエさんなのはなー」と思ったからなのか、家族というものの多様化に伴い「疑似家族」が身近なものに思えなくなっていったからなのか、ガンダムも時代を経るとともに、味方側の「コミュニティー」が変化していきます。
 『ガンダムSEED』(2002年)のそれは「クラスメイトの関係性」がそのまま移動しているようなコミュニティーだったし、『鉄血のオルフェンズ』(2015年~)のそれは「部活」のようなコミュニティーでした(先輩・後輩の縦関係があって、女子マネもいる)。

 現在のガンダムシリーズのターゲット層である十代が身近に感じるのは、「疑似家族」よりも「疑似的な学校」の方だろうと『SEED』や『鉄血』はそういう形になっていった(狙ったのか、自然とそうなったのかはさておき)と思うのですが……


 じゃあ、「疑似的な学校」じゃなくて「学校そのもの」でイイんじゃね? と考えると、『水星の魔女』が出来上がるんだと思うんですね。



◇ 社会の縮図となる「学校」で行われる「疑似的な戦争」

 「学校」とは、社会をギュギュっと凝縮した空間です。

 人種も性別も思想も出身地も経済状態も異なる人々を、狭い校舎に集めてしまう―――「多様性」の象徴でありつつも。多様な人々が集まったからこそ、「○○出身」とか「部活が同じ」とか「趣味が同じ」とか細かい共通点での派閥に分かれてグループを作ってしまうところとか。

 『水星の魔女』の舞台となる学園は、恐らく「あの場所がこの作品世界における地球圏の縮図」になるように、敢えて宇宙出身者も地球出身者も、肌の色も、性別も、貧富の差も、様々なキャラクターがいるような設定にしてあるのだと思います。
 視聴者はあの学校を観ているだけで、「地球出身者は迫害されている」とか、「なので地球出身者には鬱憤が溜まっている」とか、「水星出身者は派閥が出来るほども人数がいない」などといったことが分かるのです。



<画像は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第5話「氷の瞳に映るのは」より引用>

 「学園」編の象徴とも言える決闘システムも、モビルスーツの性能やパイロットの技術、サポートする人員などをテストして、各派閥の力を示す“大人達の代理戦争”のようになっています。純粋な「1対1」ではなく、どんな妨害工作も「それを行えるほどの人員を確保している」と肯定されるところがそれを示していると言えます。



<画像は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』第5話「氷の瞳に映るのは」より引用>

 しかし、行われているのは派閥間の代理戦争なのに、ヒロイン(=スレッタ)を2人の男(=グエルとエラン)が奪い合っている恋バナのように置き換えて観られるようにしているという。そのおかげで、ものすごーーーく大人数が関わっているスケールの大きな“代理戦争”を描いているはずなのに、「学園モノ」の少女漫画を観ているように楽しめるのが『水星の魔女』なんだと思うんですね。


 設定的には明らかに今までにないガンダムなのに、「今までのガンダム」の面白さを特に失っていないのはそういうところなのかなと。



 ということで、「えー、そんなのノーチェックだったわー」って人もサブスクで追えるので今からでもどうぞ!
 バンダイチャンネルAbemaTV、Hulu、dアニメストア等は日曜夕方6時に最新話がアップされて、AmazonプライムビデオNetflix等は木曜夕方6時に最新話がアップされます(※ 2025年追記:Huluは現在サブスクから外れているみたい)

 「Prologue」は観ても観なくてもイイと思います!
 観てた方がより深く楽しめるとは思うものの、「学園」モノにして分かりやすくした本編とは毛色がちがうので、サブスク組は本編を観て面白かったら「Prologue」を観るとかでもイイと思います。「Prologue」だけ観て、難しそうだから本編は観るの辞めようってのは勘弁してくれ!



◇ 余談
 本当にどうでもいい余談話なんですが……
 この「学校という狭い空間に社会の縮図を作る」ことで「本来はスケールの大きな戦の話を視聴者にも分かりやすくする」とか、「学校の外では大人達が戦争一歩手前の危うい攻防を繰り広げ」ながら「学校の中では生徒同士で既に“大人達の代理戦争”を始めている」という構造―――


 今季のオリジナルアニメの1作である『忍の一時』公式サイトも、ほぼ同じような構造の話なんですよね。こっちもお母さんに学校に送り込まれて、こっちにもグエルみたいな派閥のトップで威張っているヤツがいて、派閥間で寮が分かれていて、試験では妨害を受けて……と、同じような展開が描かれるという。

 ものすごくタイミングが悪いというか、どうしたって比べて観てしまうというか……『忍の一時』もがんばってくれ!

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